5月17日(金)

 遅く起きる。カタリーナはもう出かけていた。家で、猫を撫でたり日記を書いたりポッドキャストのアップロードをしたりして、あっという間に13時過ぎ。昨日作ったペンネをレンジで温めて食べて、家を出た。

 今日は歩く、と決めた。ただ歩く。カタリーナが、ダーリングハーバーに行くといいよ、というから素直にそれに従うことにした。電車で行けば30分で着くが、どこかに着くために動くのはもういいかなと思った。だから、歩いた。

 歩いている間、ただ街を感じよう、と思った。これは、自分がこれからやっていきたいと思っているワークショップを反芻した結果でもあった。いったい僕はあのワークショップで何を伝えたかったんだろう、と考えた結果だ。で、これからやるとしたら、どんなタイトルだろう、と考えた。どうも僕は、両方の端っこを行き来する、ということを中心に物事を考えているようである。それはどういうことなのか、いい例えはないか、なにかとっかかりになるようなタイトルはないか、と考えながら歩いていて、ふと、僕はシドニーの街についてから、街にあるものに指で触れるということを一切していないなと思った。だから、塀を触った。木を触った。ベンチに座り、座面を撫でた。空気をしっかりと

吸い込み、その匂いを味わってみた。すると、僕の旅は時間の構造をすっかり変えた。その場にいる、ということが意識の上の方にどんどんのぼってきて、「ダーリングハーバーに行く」という、言葉で把握できる抽象的な行為から、いま身体がおこなっていることが、ただ世界に在ること、になっていた。これは大発見じゃないか、と興奮した。僕は、言語で捉える、すなわち他者に伝えるために具体的な情報を削ぎ落として普遍性を目指す方向と逆のことも意識したい、と思っているんだ。

 それで、ワークショップのタイトルもふっと思い浮かんだ。「アンチジャグリング入門」。これだ。そして、例えていうならこれは輪ゴムだ、と思った。輪ゴムを遠くに飛ばそうと思った時、それをそのまま投げるだろうか? そうはしないはずだ。きっと、人は行きたい方向とはまず逆の方に引っ張る、ということをするはずだ。そして、限界までぐぐぐっと引っ張ってから、ぱっとそれを手放すと、勝手に遠くに飛んでいく。

 それと同じことが、生きていて起こるんじゃないか、と考えた。前に進もう、と考えて、前に進む。それは、ひたすら息を吐き続ける、ということに近い。でも、本当は、息をふーーっとたくさん吐きたいのであれば、まず吐く前に吸うことが自然なんじゃないか。

 そしてその吸うという行為は、つまり生きている中では、インプットを言語化することなく、そのまま感じる、ということなんじゃないか。ただ自分の中を通過させる。それを徹底して行う、自分の中に欲が発生したら、まずそれと真逆の方向にどこまでいくのか引っ張ってみることで、逆に力が生まれるんじゃないか、そんなことを考えた。

 僕はこのテーマだけで一冊の本を書けるじゃないか、そう、タイトルは『アンチなシドニーの一日』、だ、これだ、これはなんか、いけるんじゃないか、と思った。飛んだ勘違いの可能性も高い。けど、ただただ感じるだけで、そしてそれをつとめて言語化しないようにする、うまく表現なんてしない、と、逆方向に一旦振り切ることが、かえっていい結果を招いてくれるんじゃないか、遠く飛んでいく輪ゴムのような想像力を発揮できるんじゃないか、ととにかく確信したのだった。そんなことを考えながら一生懸命歩いていたら、ダーリング・ハーバーにちゃんとたどり着いた。もう夕暮れ時で、向こうに沈んでゆく太陽と、それが作りだす色が綺麗だった。脚がすっかり疲れていたから、段差に座って夕陽を30分以上眺めてぼーっとしていた。

 家に一旦帰って、カタリーナと一緒に近所のパブ巡りをすることになった。醸造を行なっているところ、スポーツパブ、そしてチキンパーミが美味しいの、というところの3軒。チキンパーミというのは、大きなチキンにチーズとトマトソースをかけて焼いた、チキンをそのまままるごと生地にしたピザのようなもの。歩き疲れてへとへとの身体がまさに欲している味がした。チキンを食べ終わってビールを飲んでいたら、シドニーに住んでいるディアナが現れた。サイモンと一緒にアデレードから車で何時間も運転してきたディアナ。僕はすっかり酔いが回っていて、とても嬉しくて、ディアナを抱きしめて長い髪の毛越しにほっぺにキスをした。カタリーナもディアナもコロンビア出身のラティーナだから、友達同士のキスなんて当たり前だけど、僕は今回オーストラリアに来て初めて自然に人のほっぺにキスをした。ディアナとは旅の前半にずっと一緒に過ごしていたけど、それから僕は3週間別の場所を転々とする生活をしていて、なんだかディアナと過ごした日々はもうとうの昔のように感じていたから、古い友人に久しぶりに会った気分だった。

 これまで何をしていたか、そしてシドニーでやったワークショップの話、そして、僕は今、あらゆる方法で、とにかく、こういうジャグラーがいる、ただそれだけ、そのことをどんどん示したいというだけなんです、と椅子から立ち上がって熱弁した。二人は感心したような、勢いに呆れたような、ないまぜの顔で、とにかく嬉しそうに僕の話を聞いてくれた。僕もカタリーナもディアナも上機嫌でパブを出て、車で帰るディアナを見送って、僕とカタリーナは歩いて家まで帰った。家に着いて、猫をわしわしと撫でて、カタリーナは、明日で帰っちゃうのねえ、でも来てくれてほんとによかったわあ、と抱きしめてくれた。僕も嬉しかった。残った気力でなんとか歯を磨いて、ベッドに潜った。歩きすぎた上に、ビールの飲みすぎで、関節が痛かった。ベッドサイドに置いたボトルに水をいっぱい入れて、起きるたびにぐびぐび飲みながら夜を過ごした。■