4月1日(月)

 昨日はジャグリングをしていない。朝外国語の学習会KUFSをやって、それから外でモルックやフリスビーをして遊んで、本屋にいって、ビール飲んで、帰った。

 あと20日でオーストラリアに出発。20日間、ジャグリングアクト創作にかけられる時間がある、というのではなく、実質あと2週間というところだ。そろそろ固めに入ろうと思って、いつも行っている公園で道具を持って時間を取る。でもそもそも、演技を作るってどういうことだっけ? と手が止まった。そしてこれは何も今日に始まったことではなくて、毎回、何かフェスティバルだったりイベントだったりに出演する時に、演技を作らなきゃいけない、と思うと毎回ぶちあたってる壁なのである。決まった方法論みたいなものも持っていない。誰かに教わったことがあるわけでもない。とにかく自分でやる。で、しかし、その方法を持っていないのである。はて。

 大会に出ていた頃は、「ルーティン」を作るみたいな考え方があって、決まった分数があって、それに見合った曲を見つけてきて、その曲の起伏に合わせて技を組み合わせる、というやり方がひとつあったけれども、それはあくまで競技というフォーマットにあわせてのことである。パフォーマンスをするにあたってはもう少し、コミュニケーションの取り方、というあたりから考えねばならない。自分が何かを見せる状態にあって、見ている人たちに対して、どう語りかけたいのか、ということを考えねばならないのである。ま、こんなふうに小難しく考える必要あるんですか、と言われるかもしれないけど、考える必要、あるのである。なんでかと言えば、何かを作る際には、その作る理由に心から納得できていないと作れないからである。 

 急に、「横浜ジャグリング大学」という名称が頭をよぎった。そうだよ、僕は自分でジャグリングの大学をやっちゃえばいいんだよ。語学をやるのにも、僕は「港北外国語大学」なんて名付けて、大学を作っちゃってるじゃないか。ジャグリング大学を自分でやればいいのである。ジェイ・ギリガンは、ジャグリングっていうのはそもそも自分ひとりでも学べるものなので、大学でできることは、基本的に誰でも、どこでもできることである、と言った。実際に、それはその通りなんだ。それを実践するのが難しい、あるいはそれを考えるだけの胆力と時間がなかなか普通は取れないものである、というだけであって、十分に実現可能なのである。

 僕が考えるに、要は大学の存在意義というのは、「あることについて考えるためのリソースと時間が十分にある」ということである。そこにそれ専用の空白の時間と場所が用意されること、につきると思う。だから、ジャグリングに特化した時間を自分で十分にもてば、それは僕にとって大学なのである。学ぶ意思があり、そこにその気持ちを流し込む場所と時間が十分にあるということである。この日記だって、レポートみたいなものだ。毎日、考えていることをアウトプットしなさい、というわけである。形あるものにして、それを踏み台にどんどん次のところに行きなさい、ということである。そうやって、自分の中の教授がいうわけである。

 で、また昨日までの議論に戻るような感じなんだけど、僕は「技」という単位を一旦解体して考えるところからやらないといけない。パフォーマンスにおける単位というのは、僕にとっては、ということだけど、語りかけなのである。いや、これさえも、もっと考える必要がある。本当は、語りかけじゃない形だって存在する。むしろ、語りかけですらない方がいいかもしれない。どうなんだろう。僕はあんまりこういうことを具体的に考えることができない。そう。僕は考えるという行為がなかなか苦手なんだ。すぐ思念がどっか行っちゃうんだ。で、こうして書くことでかろうじてそれを形あるものにとどめているのである。

 で、何かジャグリング道具を使ってやる、みたいなことも、それと同じことであるかもしれない。言葉を使って、なんとか、自分が考えていることをしょうがなく掬うみたいな形で、別に本当はこれじゃないんだけど、とりあえずジャグリング道具で何かをやる、という機会が与えられたもんだから、これをやっています、それぐらいの感じなのかもしれない。

 で、僕は今日電気グルーヴの曲を聴いていて、ああ、この曲、いいなと思って、それをテーマにすることにした。どうせ進んでいくうちになんか違うな、と思うのは目に見えているんだけど、でもとりあえずこれで進める。そう、僕は決定をするのも大の苦手だ。これじゃん!と思った5分後にこれじゃないや……と思っちゃうくらい、気が変わりやすい、というのか、忍耐がない、というのか、とにかく物事にじっくり取り組むということがとことん苦手なので、なんとかそこを解決しないといけないんである。

 もっと気軽にいろんな作品を作っちゃえばいいじゃないか、とも思う。一個、決め打ちで作ろうとするからなんだか嫌になっちゃう。傑作を作ろうとするから、嫌になっちゃうのかもしれない。もっと軽やかに、絵を描くみたいに、とりあえずワンストロークずつ塗っていって、まぁ、そんなに綺麗じゃないけど、とりあえずこれで完成、という、そういう積み重ねをしたい。

 なんだか今日は支離滅裂である。でも、いいのだ。こうして自分が何を考えているのかを知るために、書くという行為が存在する。綺麗なことを書くためにしか書くことが存在しないのだとしたら、そして、綺麗なものしか成果物として人に見せることが許されないとしたら、つまらない。もちろん、いいものを見せたいけど、まぁ、それだけじゃない、何か、もっと、まともな形をとっていない軌跡みたいなものだってあっていいのである、というか、そういうものから、徐々に何かが固まっていくのである。

 それは、ジャグリングの演技を作る、ということにおいても一緒だ。何がしたいんだろうね、僕は。でも、今日ジャグリングをしていてわかったのはやっぱり、人を笑わせたいんだ、ということである。で、そのために、はりのある曲にピッタリ合わせて技を繰り出し続ける、みたいなのはちょっと失敗したら嫌だし、緊張しちゃうんだよなぁ、ということ。だからちょっとふざけた感じのことをしたいんだけど、でもそれが僕の弱点なのも知っているんだ。いつだって僕の演技の中には、何か、技が足りない感じ、がある。挑戦するのが嫌いなのだ。

 で、こうやって書いてみて気がついたけど、そうか、今回の演技には挑戦も入れる、ということが大事なんだね。それは、僕が乗り越えたい壁の一つなのである。ああ、よかった。こうして、細かく蛇行しながら書いている変な文章で、一個、目標が見つかった。

 しかし、今こうしてオーストラリアのフェスティバルに向かって考えていることをかき、それが今の最終目標であるというような感じで進んでいるけど、もちろんそんなことはなくて、AJCは、ただの通過点でもある。そこからまた新しいことが始まる、というくらいに考えていい。そう思うと、逆に気楽に、本気で取り組もう、と思える気がする。どうせ通過点なんだから、失敗してもいいという気持ちで、たくさん時間をかけて、自分が思う「今はこれ!」を出したらいいじゃないか。

 なんだか僕は、本当に、何かに正面切って対峙して、挑戦するのが苦手なんだなぁ。■