3月30日(土) 気持ちがいいこと

 臨港パークで30分ぐらいディアボロを回した。昨日までのしとしとの雨とはうって変わって、すっかり晴れていて、雲も全然なくて気持ちがいい。気持ちがいい、というのはジャグリングをする上でとても大事だ。僕は気持ちよくなりたい。それってどういうことか。コンフォタボーであること。気分がいいこと、なんかルンルン、ということ。フローだ、ということ。リズムがいいこと。遠心力が感じられること。普段伸ばさない身体の部位が、十全に伸びるぞ、ということ。練習をすることをエクスキューズに、外にいられること。道具の手触りがいいこと。人にジャグリングを教えること。ディアボロを高く上に飛ばすこと。風を感じること。難しい技ができるようになること。ジャグリングをテーマにした雑誌を作って、それが売れること。鼻の上に棒を乗せてバランスをとりながら、深呼吸をすること。ジャグリングをしている姿を見て子供がよろこんでくれること。ジャグリングはルールがないから、何をしてもいい、自由であるということ。いい運動になること。時々パフォーマンスをすると、見た人が驚いてくれること。ジャグリングをしているんです、というと、珍しがられること。とにかくいっぱいあるわけだ。

 でも、ジャグリングをする時に経験する時間は、気持ちがいい時間だけではない。自分がどうしてもやりたい技があるとして、それを習得して、いつでも出せるようにするにたくさんの練習をしないといけない。できない技を延々と練習する時間は、おおむね、辛いものである。もちろんその中に、ほんの少し進歩できたことを心から喜べる、という報酬の時間もある。でも、思ったように進歩しないことの方が多い。なんでできないんだよ、と悔しくて、道具をほっぽり出して、辞めたくなることなんてしょっちゅうだ。

 その両方があるんだ。どちらがよりいい、のではなく、ただ、両方がある。そのことをしっかりとみつめて、今自分がどっちをやっているのかな、と判断したい。そして、そのどちらにも充実した時間が宿る、ということを認識したい。で、自分に聞くんだ。今は、気持ちいい方? それともあんまり気持ちよくない方?

 僕としては、メインは気持ちいい方がいいなぁと思う。で、時々、もっと気持ちよくなるためにはここんところを押さえていかないとダメだな、という、避けられない気持ちのよくなさみたいなものがある。たとえば、僕が「豪華客船の上でパフォーマンスをする」という結構面白そうな気持ちよさを狙っていくのだとしたら、そのために最低限こなせないといけないことがある。そういう時だけ、ちょっと大変なことをする。でも、基本は、いつだって自分の心の中を風が吹き抜けるような、気持ちよさを感じていたい。ジャグリングするなら、楽しくやっていたい。そんなあり方で、軽く構えていきたい。で、気持ちのいいことをしている時は、細部に意識を広げて、ああ、これって本当にいいなぁ、と味わって、こんなこともしてみようかなぁ、と、身体が命じるに任せる。

 具体的な方法として僕は、失敗しないジャグリングの動きを、延々と繰り返す、最低5分は繰り返す、というやり方を見つけた。たとえば僕がこのところ凝っているのは、ディアボロの連続サンである。紐の上に乗ったディアボロを、ディアボロが円を描くように大きくグルングルンと回す技。遠心力が気持ちよくて、かつ大きな動きで見栄えがするので、はたから見ていてもなかなか悪くないんじゃないか、と思うし、基本的な動きで、簡単だからほぼ失敗しない。あと、もっと専門的な話をすれば、回転をかけながら行うことができる動きなので、理論上無限に続けていられる。で、サンをやり続ける。やり続けていると、飽きてくる。すると、身体が頭が、ここ、もう少し工夫できるんじゃないかなぁ、と語りかけてくる。なんか、足動かせるんじゃないですか、とか。もっと正確に、ディアボロが傾かないようにサンできるんじゃないですか、とか。スティックもまっすぐ外を向いている方が綺麗だしやるのも気持ちいいんじゃないですか、とか。そこで初めて、その技に変化を加えてみる。無理に新しいことはやろうとしない。ただ、身体が「今の動きのままだとこの部分がなんか不十分に感じるから、こういう感じの新しいことをしたい」と命じてくるのを待つだけ。そういう有機的な変化の仕方を期待するのだ。

 技を客観的に分析して次々習得する、という流れの反対をやる、ということでもある。

 何か、「技」と呼べるような道具の新しい扱い方を学ぶのは、それはそれで、必要に応じてやっていい。というか、必要なら、やる。そして、自分が気持ちいいと感じるようなジャグリングの追求は、それはそれで、全く別の営みである、ということをまず理解し、そっちもやる。だって、気持ちいいから。技の習得のために、ボトボト落としながら何度も挑戦するのはフラストレーションがたまるけれど、それだけがジャグリングじゃない。フラストレーションがたまらないことを、そっちの、いわばマイナスの方も、きちんと徹底的にどこまで行けるのか試す、探っていく、リラックスの方に徹底的に振っていくことも大事なんだ、と思うわけである。その両方の行き来ができるときに、なんかもっとジャグリングが豊かになっていく感じがする。

 ジャグリングをしている時間は、「練習」とは言うが、それも生きている時間の一部だ。だからジャグリングがいつでも、身体と頭の、さまざまな気持ちいいツボを刺激するような行為であってほしい。「ジャグリング技術の習得」という限られた文脈の中で言えば「練習」であっても、刻々と進む、人生の寿命が尽きるまでの、有限の時間の中で言ったら、それはいつでも「本番」だからである。■

2024年4月2日 加筆修正