第5回 認知的な負荷をかける(最終回)

初出:2022年8月14日 note

 作る気がしなくても作るのが大事だ、と言っておきながら、こうして三日間も連載を休んだりしますが、それもそれで一向に構いません。あんまりこの連載に気乗りしていないということかもしれません。でもすぐに諦めるのは僕の悪い癖ですので、ここは一つ少しだけ意地を張って続けてみます。一応今日は、「つくることへの罪悪感」というテーマで話そうと思っているんですが、でも全然違う話題になるかもしれません。

 何かをつくることに関してすぐに腰が重くなってしまうことがあります。まず、そもそも、ものを作ろうと思う過程について考えてみます。

 僕は今日バイクで走って食べ物を届けている最中に、ふと漫画を描きたい、と思いました。いいテーマが浮かんだんです。一個、これはいける、というテーマが思い浮かびました。頭の中では、もうプロットもなんとなく出来ました。そして、絵柄について考えていました。どういう絵柄でスタートしたらいいだろうか、と。何で刷ろうか。どんな人が買ってくれるだろうか。このテーマだったら、かなりいいところまでいくんじゃないだろうか。

 こんなふうにして、まずはどんどん妄想が膨らみます。この時点ではとても楽しいのです。というより、この時点が一番楽しいのかもしれない、とさえ思います。でも、実際に「つくる」という行為が始まるのは、ここから先ですよね。漫画を描くなら、まずはペンを紙に置かないといけない。でも、その第一の動作までにえらく時間がかかってしまう。決して、時間がないわけではないはずなんです。時間は、僕はどちらかといえばあるほうです。でも、何かを始めることができない。これはなんでなのだろうか。

 ここには、恐れと罪悪感があります。まず恐れに関して書いてみます。つくることへの恐れについて、いくつか挙げてみます。

 いいものが作れないかもしれない。作り始めたら時間をそちらに割いてしまって、他にやらなければいけないことができなくなってしまうかもしれない。実は思い描いていたようなことを実現するには、膨大な時間が必要だ、ということに早々に気づいてしまって、諦めたくなるかもしれない。面倒だなあ、と思ってやらない、ということはほとんどなくて、大体において、何かつくることができないのは、始めるのに恐ればかりが募って、そもそも始められない、という場合が大半です。

 では次に罪悪感とはなんだろうか。

 僕はこのキーワードを、やっぱりバイクに乗って走っている時に思いついたのですが、一体なんのことだったのでしょうか。「つくることの罪悪感」と音声入力でメモをしたので、まだ覚えていました。僕は『ジャグラーのぼうけん』の続編も、すぐにでも書きたいんですが、なんだかそこに罪悪感があります。これを克服しないと書き始められない。その罪悪感とは、「自分の義務ではないことをやっている」という焦りです。

 これは、あまり一般に言えることではなくて、限られた数の人間に特有の感覚であるのかもしれません。でも同時に、似たような思いを抱えている人がたくさんいるんじゃないか、という気もまたします。まぁ、よくわかりませんが、「罪悪感」という言葉がどこか当てはまるような感覚が、自由にものを作っている時に訪れる場合があります。

 恐れと罪悪感、この二つは、どこか同根であるような気もしています。

 僕は、何かをつくるときに、それに没入してしまったら、きっと多大な時間をとられるだろう、それ故に、自分が本当に取り組まなければ行かないことにさく時間がなくなってしまうのではないか、という、「義務を果たせなくなる可能性」という罪悪の予感のような形として、何かをつくることに対する恐れが芽生えます。

 まぁ、実際には本も書けているし、絵も描いているし、なんらかのものを生み出しているという事実はあるのですが、いかんせん、今の自分には、それが不完全なものであるように感じられてなりません。それは、上に述べたような恐れと、一抹の罪悪感(のようなもの)の中でつくっているがゆえに、何か、フルでコミットできていない感じがするからです。

 考えるよりも先に、つくるという行為が先立っていたい、と思います。小さい頃を思い出してみます。7、8歳のころです。ああ、こういう遊びがしたい、と思ったら、その遊びにすぐさま取り掛かっていました。それは必ずしも何かをつくる行為ではありませんでしたが、工作をしていることもあったし、ぬいぐるみで話をつくっている時もあったし、まぁ、でもすべてはつくる行為であった、と言えるかもしれません。

 僕は、「つくる」という行為を通じた認知的な負荷を必要としています。とにかく、暇なんですね。脳が。身体が。僕は、とにかく認知的な負荷、忙しい感じを、つくることで出していたい、と思っています。常に何かをつくっていたい。まぁ、これは願望なので、実際にできていないからこういうことを言ってます。

 僕はこれに何によって気がついたかというと、YouTubeです。僕は一度YouTubeを見始めると、止まりません。まぁ、みんなあんまり言わないだけで、多くの人がそうなんだと思いますけれども、そして、自分でもこんなの嫌だなぁ、と思うのですが、うまい具合にインターフェースが作られているおかげもあってか、とにかくどんどん続きを見ることがやめられません。

 自分でも不思議です。自分でも呆れるぐらいの勢いで見ちゃいますよね。逆にそのおかげ(というのか)で僕は、ブレイキンの大会の動画ばかり見るのですが、世界的に有名なBboy、BGirlの名前をどんどん覚えてしまって、しまいには一瞬映像が映るだけで、何年の、誰対誰のバトルか、ということまでさっとわかるようになってしまいましたが、とにかく、これはなんでなのだろう、と考えました。なぜ僕は、自分の意志に反して、世界中から発信されている映像を次々に見ることをやめられないのか。

 これは、新しい情報を次々に摂取することによって、認知的な負荷をかけたいからだと思い当たりました。僕は飽きやすいのですが、飽きやすいということはつまり、絶え間のない、新鮮な情報の摂取が必要だということで、その新鮮な情報は、必ずしも外部から来る必要がない、ということにも気がつきました。自分が何かを作り出しながら、それを自分自身で楽しむ、そういう行為でもいいのです。そして、僕が小さい頃にやっていたことというのは、まさにそれでした。もちろん今でもその行為の根幹にあるものは変わっていません。

 というわけで、僕は急に、この連載をここで止めよう、という気になりました。なぜなら、僕が楽しむためにまず「つくる」という行為が存在すべきであるならば、あんまり乗り気でない連載をわざわざ続けることもないからです。

 漫画を描きたいと思ったのなら、漫画を描けばいいし、小説を書きたいなら小説を書けばいいし、絵を存分に描きたい気分の時は、絵を存分に描いたらいいのです。そこにいちいち講釈を挟まない、ということが、一番の「つくる」ことの効能を感じる態度であるような気がしてきました。僕はまだ、日課である今日の絵を描いていません。描きたいなぁ、と思っています。

 でも、このことについて気がつくためにここまでの文章を書いた、ということも言えるでしょう。なんせ、書いてみるまで、自分が何を書きたかったのか、そもそも書きたいことなんて本当にあったのかどうかもわからないのですから。

 海に飛び込むにはどうすればいいかと言ったら、飛び込むしかない。どうすると恐れが少なくなるか、とか、そういう工夫ってあんまり効果がない、実をいうと、むしろ恐怖を助長する気さえします。

 暇つぶしを、自ら作り出す、ということですね。それ以上の説明はいらない。

 小さな本を作ったのも、僕にとっては、とにかく暇つぶしを自分でつくる、ということだったのだと思います。自分の脳、身体、心が喜んでくれるものをつくる。それを外から拾ってくるのではなくて、自分の要望に合わせて、自分で作り出す。それだけです。僕は本当はそれを欲しているんです。
 それを言いたくてこの連載が始まったのだと今は思います。

(「ほぐせ、心のコリ」 完)