第4回 カレーを食べて初めて、俺はカレーが食べたかったのだと知る

 ざっとここまでの三回分を読んでから文章を書き出しました。この連載は一体なんのためにあるのか。なんだか、今でもわかりません。
 連載を始めた時点では、トークで話したいと思っていることを文章にしてみようと思っていました。でも書いてみたら、確かに言いたいことはあったんだけど、その言いたいことをうまく言い当てられている感じがしません。今こうして書いていても、まだ釈然としません。
 それでも僕は、一日四〇〇〇字、と自分で決めたのでひとまず遂行しておきます。

 僕はこういうふうに、ひとまず規則正しく書くことを、「方法的な書き方」と呼んでいます。「書ける時に、なるべく優れたものを書くよう努力する」のではなくて、「質に関わらず毎日定量を書く」というやり方です。書きたいことがあって、やる気満々で、もう書くっきゃない、という状態で楽しく書き上げる、ということが、いつでもできればいいですけれど、そうもいかない場合があります。というか、そうもいかない場合が大半です。
 そして、「〇〇について、書ける時に書こう」というのだと、まぁ運がよければ書けるんですが、大体、書けずに終わります。だから僕は、もうとにかく、書けるとか書けないとかどうでもいいから、量を生み出すことを軸に、なんとか書いてやろう、という作戦に出ることがあります。

 これがいいやり方なのか、つまり、優れた作品を生み出すために有効なやり方なのか、わかりません。散漫になってしまうから、うまくないやり方である可能性もあります。ですが、「何かをつくり続ける」という目標を達成するに際して、ひとつの手段であることは確かです。とにかく何かを書いたら、それだけ量は溜まっていきます。そして、もう、作ると決めたら、とにかくやっていくしかありません。人によっては、「そんなのはやった気になるだけで、作品作りなんて言わない」というかもしれません。それはそれで一つの考えです。こっちはこっちで、自分のやり方で進めます。
 でも、書けばいい、ってもんでもない、と僕も思います。やっぱり、最低限、僕自身が読んで面白いものを書きたいと思います。だからそうなるように工夫してみましょう。

 この連載のテーマは「ほぐせ、心のコリ」とある通り、「心のコリをほぐすこと」です。そして、このテーマを思いついた発端は、僕が小さな本を出版したことです。だから、そのふたつの要素を重ね合わせるように書くのがスジでしょう。でも、ここであえてスジを通さない、というのもいいんじゃないかと僕は思う。そっちの方が俄然面白いような気がします。
 スジが通っていることが必ずしも正しいわけではありません。そもそもスジばっかり通してると面白くありません。整合性を保とうとすればするほど、トレードオフで躍動感が失われていきます。
 文章を書かせているのは、脳みそと、身体と、臓器、ですから、そしてそれらの有機体は全部変化しているものですから、その変化をうまく乗りこなして、文章という外部装置に変換していく必要があります。そんなことを考えます。アメリカの作家、ジャック・ケルアックの”On the Road”という作品は、ダーっと、一枚の巻物のような紙に、本にしたら三百ページの内容を、三週間で書いています。そういうやり方もあるよね、と思います。それこそ、タイプライターしかなかった時代で、一回書いたら、容易に修正ができない(と思うんですけど、どうなんでしょうか)わけですよね。どういう心境で書いたのか、詳しく知りませんが、そういう、勢いのあるやり方に僕は憧れがあります。
 書くという行為自体が「運動」として心地よく機能している感じが、方法的に書くことの醍醐味です。ただ、もう、頭と身体が一体化して、思いついた言葉とその流れ自体がそのまま定着しているようなイメージです。直すべきところは後で直せばいいや、というノリです。

 さて、ここまで書いてやっと二〇〇〇字弱で、またしても何を書くべきか迷いが生じています。休みたいなら休めばいいんじゃないかとも思うのですが、ここは、方法的に書いていくことを優先して、どんどん書いてみます。
 まぁ、結局のところ、別にこの連載は、本にする必要もないかもしれない、とも思い始めています。「本にする」という目標で書き始めて、書いてみたら、まぁ、そういうものでもなかったね、という結論でも一向に構いません。
 ただ、そうしてなんらかのゴールを設定したことで、とにかく書き始められた、そして、このままいけば一応書き終わることが出来そうだ、ということが大事です。

 さて、この段落から先は、日を置いて翌日に書いています。ここまでで二〇〇〇字弱でした。上の部分を書いていたのは夜中の十二時近くで、分量は少ないけれどもそのまま発表してもよかったのですが、なんとなく憚られたので、連載だから必ず毎日、意地でも掲載する、ということを少しだけ曲げて、次の日に回すことにしました。今日は、十時まで寝ていました、おかげで頭はすこぶるよく働いている感じがします。

 もうとにかく僕の身体、というか思考はどんどん変化していきます。さっきも、何か書きたいことが浮かんだのですが、もう忘れました。でも、そういう変化の波を手に取れる形で、目に見える形で固着させることができるのが、「何かを作る」という行為のいいところです。考えたこと、というのは、思考のままではそれが一体どういうふうに変化したのか、わかりません。他の人にも伝わりません。とにかく、下手でいいから、どんどんつくると、少なくとも自分が何を考えているのか、そして何が自分に足りていないのか、それを確認する材料になります。今僕は、はっきりとインプットの不足を感じています。思考の振れ幅が狭くてなんだか退屈な感じがします。思考の振れ幅というのは、僕にとっては、どういうふうに今までの記憶を組み合わせるのか、ということです。記憶の中に、色とりどりの材料があればあるほど、それらをダイナミックに、有機的に組み合わせられる感じがします。その際に、記憶の強度、というか、その記憶の鮮やかさが大事だと思っています。もちろん、世界中を旅したら、たくさんの面白い経験をするでしょうが、それが偉いわけではありません。僕は熊谷守一という画家が好きですが、彼は晩年、10年だか20年だか、ほとんど家を出なかったのだ、と言いますが、それでも庭で蟻を眺めたりなんだりして、楽しく暮らしていたみたいです。彼の自伝である『へたも絵のうち』という本、面白いです。まぁとにかく、そういう、場所の移動として振れ幅が狭くたって、イキイキとした、鮮やかな日々の変化の記憶を持つことはできます。

 じゃあ、それ以外の方法ではどうしたらいいか。

 本を読めばいいってことでもない気がします。もちろん、そういう知識が無駄だというのではなくて、でも、本を読むという行為、知識をつけるという行為は、それが教養をつけなきゃ、というような強迫観念でなされているときに、そこで得た情報がどうもうまく固着しない感じがします。好奇心の形を、もっと臨機応変に満たしてやる必要があるんじゃないか、と思います。「俺は今何を知りたいんだろうか」ということに関して、なるべく丁寧に向き合ってあげる必要がある、ということです。自分が今何を知りたいのか、

 こうして長い、まとまった量のある文章を書いていると、不思議なことが起きます。それは、「自分が何を知りたかったのか、後からわかる」という現象です。iPhoneを作ったAppleのスティーブ・ジョブスなんか、そういうことを言っていましたよね。みんなが今欲しがっているものを調べたってしょうがない、先回りで魅力的なものを作って、これが欲しかったと気づかせてあげるんだ、みたいな。なんだか細かい文言は忘れましたが、そういう感じです。今自分が何を知りたいのか、今自分が何を欲しているのか、ということは、あらかじめわかることが出来ないんですね。食べたいものがはっきりとはわからないのと一緒です。食べてみて、ああ、これこれ、とわかりますよね。

 そんな感じで、つくるという行為には、「自分が何を欲していたのかを遡及的に知ることができる」効用があるのです。僕が本を書いてわかったのもそういうことでした。僕は、自分自身の経験が、感じのいい、小さな本になることを望んでいたんだ、と本を手にして初めて知ったのです。■

初出: 2022年8月10日 noteより