第1回 『ジャグラーのぼうけん vol.1』を書いたわけ -小さな本をつくる効用-

初出:2022年8月6日 note

 二〇二二年八月二十日、二人のジャグラーの友人と一緒に、本屋・生活綴方で、トークショーを行います。企画してくれたのはプロジャグラーの結城敬介さん。もう一人の登壇者は、僕と同い年のジャグラー中西みみずくん。彼は最近『フニオチル』という名前のジャグリング雑誌を出しました。今回のトークは、二冊の本『ジャグラーのぼうけん vol.1』と『フニオチル』の話を軸に、自由に展開しようと思っています。
 でも、三人で一緒に話すものですから、僕自身が一番積極的に話したい、今の興味の中心については、ひょっとしたら話せないかもしれません。他の登壇者にも、それぞれが言いたいこと、聞きたいことがあるでしょう。僕の思い通りにはいかないわけです。むしろそれが対談の面白いところです。三人の予測不能なセッションになるわけです。そして僕だって、二人の面白い話をうまく聞き出してやりたいと思っています。
 なんなら、三人で話した翌日に、ソロで話す場所があってもいいかな、と考えたりもしました。でも、なんだか「話したい」という欲ばっかりが生煮えな状態で人前に出るのは、今は違うんじゃないか、と思い直しました。いや、それはそれで面白い話ができる自信もないわけではないが、一方で、ちょっと独りよがりになるんじゃないか、早い話、ちょっとウザい感じになっちゃうんじゃないか、と思い止まりました。そこで、ちょっと冷静になって、そうだ、こうして文章で書く、ということを通して、その生煮えな「なにかを話したい」という感情に向き合ってみよう、と思いました。これなら、読みたい人が読めばいいだけです。そして、この原稿をまとめて、小さな本にしてもいい。なんならそれを売れるじゃないか、と考えています。そしたら、僕も嬉しいし、紙の本が読めてなんだか楽しいワ、という二十人ぐらいの人もいるかと思います。別に内容はこのnoteに無料で書いてあるので、読みたいだけならこっちを読んで貰えばいいのです。でも「なんかちょっと面白いな」と思った気のいい人が、本を買ってくれればいいなと思います。
 以前の僕だったら、こうやって立ち止まらないで、結構突っ走って行ったような気もするんですが、そして盛大にコケていたと思うんですが、僕には今サクちゃんという大事な友人がいて、助けられています。僕は先日サクちゃんに電話して、今やりたいことについて、落語みたいな話し方で夢中で相談しました。意味もなく蕎麦啜ったりして、本当に落語のように解説していました。意味がわかりません。でも、サクちゃんは僕の興奮した話にすっかり乗るでもなく、かといって呆れて適当に流すのでもなく、ちょっと笑いながら、でも冷静に、ああ、そしたら、こういうのもあるかもね、と意見をくれたんですね。僕はそれで、ちょっとブレーキがかかったみたいになって、一瞬、それこそ慣性の法則でドドドッと頭の中身が壁にぶつかって停滞したみたいになりました。で、僕は普段こういうことがあると「なんだ、素晴らしいアイデアの勢いを止めて」みたいにちょっとカッカしてしまう、というしょうもない傾向があるのですが、何故かサクちゃんがそういうふうに言ってくれた時は、スッと素直にものを考え直すことができました。そんなのは初めての経験でした。ただ上から遮るように提案されたのではなくて、あくまで優しく、フラットにこちらの話を聞いてくれたことで、そのあとにやるべきことを、自分で気づくことができたんですね。それだったら素直に受け入れられますし、何よりそこで一旦立ち止まることで、より面白いことも思いつきました。
 そうだ、今話したいからすぐに話すのもいいけど、もっと継続性のある創作につなげてみようじゃないか、と。
 それで始まるのがこの連載であるわけです。毎日書いて、全部で七回を予定しています。何故かというと、早めに書き上げて、トークの前に、本にしてしまおうと思っているからです。さて、できるでしょうか。まだわかりません。一回分は、大体四〇〇〇字にしようと思います。それぐらいだったら、ある程度時間をとれば書けます。

 さて、では僕はなにを話したいんでしょうか。
 一番に来るのは、「小さな本をつくることの効用」です。まずは「小さな本をつくる」ということについて話したい。zine(ジン)という言い方も世の中にはありますが、僕は「本」と呼びたい。本屋・生活綴方でも、基本的には「zine」という語を使わず「本」と呼んでいます。僕は、「小さな本を『自分で』つくる」という行為に潜んでいる面白さの源泉を突き止めたい。それが、人間に及ぼす作用について考えたい。
 まずは、僕がなぜこの本を書くに至ったか、ということについて話します。僕は、この本の内容、つまり、自分自身のジャグリング世界旅行記のようなものを書いて、それを一つのパッケージにし、読める形にするという「つくる」行為を介して、とにかくスッキリしようと思っていました。この、スッキリしようとする感じ。これはとても大事なポイントです。これこそが、「小さな本をつくる」ことの根本的な動機です。
 「本をつくることは、運動に近い」という直感があります。つまり、単純に、やると気持ちがいいから、やる、という部分が大きいんです。もちろん、運動をパフォーマンスとして見せて、それでお金を稼ぐ人もいます。でも、それ以外の世界の方がずっと広大です。健康のための運動だってあるし、別に全国レベル、世界レベルの運動でなくても、周りのひとと楽しむための運動というものもあります。そして何より、適度な運動によって、コリがほぐれます。気持ちが良くなります。生活に活力が出てきます。
 これをそのまんま、「本をつくる」という創造行為に当てはめても、まったく同じことが言えるんじゃないかと思います。これは面白い、行けるな、と思うなら、見せたい部分をどんどん売り込んでいけばいい。いや、これはまぁ別に売り物にする気はないけど、でも気持ちよくなりたい、というのなら、こっそりやってもいい。全国レベルじゃないかもしれないが、ちょっと見られているくらいのプレッシャーがあるとうまくつくれる、というのであれば、ちょっと見られればいい。大事なのは、自分が調子良く運動できる、ってことです。

 では次に、「コリ」の話をします。運動がコリをほぐすとすれば、僕の今回の『ジャグラーのぼうけん』という本の執筆も、僕の中にあった何らかのコリをほぐした、という確かな直感がありました。そのコリは、ジャグリングという「分野名」でくくられながら何かをおこなっている際に、無意識に生じているコリであったような気がします。
 生活をしていて、僕らは人とたくさん関わります。その中で、多くの細かい物事というのは省略されていきます。たとえば僕が「ジャグラーです」と言った際に、そこにはたーくさんの思い出、苦労、悔しさ、年月、出会った人々の記憶、すべてが想起されているんですが、そんなことをすべて会話の中で伝えるわけにいきません。初対面の人に、ジャグラーである、ということがどういうことか、そもそもしっかり時間をとって伝えられるようなシチュエーションがありません。
 そうなってくると、僕の記憶の中で、無意識に閉じ込めているような領域が出てきます。人付き合いの中では顕在化させることが難しくて、蓋をしているような感情や記憶が出てきます。
 僕はこれを「心のコリ」と呼ぶことにします。「心のコリ」は、「心残り」と呼応しています。満たされないんです。僕は、心のコリを、常に抱えています。心の中で、十全に使われていない領域があると、その部位にどんどんコリが溜まってきます。そして筋肉にコリがあると、身体全体の動きが鈍り、果ては痛みに変わっていくように、いろんな不調につながっていくような気がするんです。
 『ジャグラーのぼうけん』を書くにあたってコっていた部位はどこでしょうか。それは、「『ジャグリングのおかげで出会ってきた面白い人やこと』について思い出す部位」です。そういう、すごく特殊な用途に使われる部位があるんです。折に触れて、ああ、あの時、よかったなぁ、とか、僕は生活していても、思い出すんです。でも、ただ思い出すだけでは何だか満たされない。コっていきます。
 文章を書くというのは、ただ考えていることをコピー&ペーストみたいに紙に移し取る行為ではありません。書きながら、自分でもわからなかったことが判明するような、知力を使う運動です。その場の判断で内容を変えていく、極めてアクティブで、アグレッシブな行いです。そして、そういうふうに思い出について書いていると、そこに、自分でも知らなかった風景が出てきます。そうすると、「ああ、俺はこんなことを考えていたのか!」と、スーッと、心のコリがほぐれていくのですね。納得します。スッキリします。書くというプロセスで、すでに僕はマッサージされているのです。しかしそれが本という形で、いつでも読み直せる、手に取れるパッケージになっている、というところもまたいいところです。そこに確かに、運動の軌跡がある、と信じることができるから、安心するんです。
 『ジャグラーのぼうけん』の一冊目を書いて僕は、自分が心の中で大事に思っている風景を、何度でも読み返して再現できるものを生み出した。これによって、僕は、いつでもその部位をマッサージすることができます。もちろん、何なら、読み返さなくったっていい。書いて、形にした、という事実があるだけで、人はずいぶん心が軽くなります。運動だってそうです。とにかく、コリがあるから、動いた、という事実が大事なんです。また別の場所がコってきたら、その都度で動けばいい。いや、むしろ、一回動いたからそれでOK、ということではなく、人は永遠にコリをほぐしながら生きていくしかないです。僕は、生きている間中ずっと「小さな本をつくる」ということを、やっていくべきなのかもしれません。
 次回では、「本をつくる」ということからさらに離れていって、「つくる」という行為全般に敷衍した話になっていきそうです。でも、明日のことは明日になるまでわかりません。
 ひとまず、今日はここまで。■