「二日間ジャグリングをしていない」ということを書いたのちに、これじゃいかん、と思って公園に行く。少しでもジャグリングをしようと試みる。結果的に、一時間弱ジャグリングをした。いつでも、開始のきっかけさえあれば、予想以上の充実が待っている。
オーストラリアのAJC(アデレードジャグリングコンベンション)で、一体どんなワークショップをして、どんな演技をしようか、と、そろそろ焦り始めている。というか、今から焦らないともう間に合わないことを知っている。漫画を描くとき、サラサラと描いても自分が面白いと思うような物語が生まれてこず、じーっと机に向かって、ああでもないこうでもないと思いを巡らせて2時間後から始まる物語であって初めて面白い。それと同じように、ジャグリング(的な何か)も、考えを巡らす時間がたっぷりあって、その上でなんとなくこういうことをしたいぞ、と確固とした目星がついてからジャグリングをするような感じでありたい。
で、僕がしたいのはやっぱりジャグリングそのものだけじゃないや、という思いが強まった。ジャグリングと名指されうるものが、僕が存在している空間の中で全体の2割ぐらいだとちょうどいい。そんな感じがする。それ以外は、服とか、足の動きとか、顔の表情とか、どこにいるか、とか、道具の色とか、それ以外のメールのやり取りとか、コンベンションの中でのみんなとのコミュニケーションの取り方とか、全部。そのすべてがあった上で、舞台上に、ジャグリングと名指されうるものが大体、なんとなく、2割くらいの割合で存在している。そんな人でありたい。「ジャグラー」でなくて結構。ジャグリングというものが世の中に分野として存在していることで恩恵を受けているけど、それは外向きの肩書きである。やっていることの複雑さが捉えきれないからこそ、その単純な名前を使うことにコミュニケーションを円滑にするための意味がある、というだけであり、自分が、「ジャグラーとしてジャグリングをしたい」以上の、もっともっともーーーーーーーっと捉え所のない、ぼんやりした、それでいて中身がとんでもなく詰まった不明瞭な欲望を持っているということを、自覚した方がいい。それがわかっているうちは、楽しい。忘れると、苦しい。■