別に何はなくとも、シンガポール人のスィン姉さんからはたびたびメッセージが届く。ちょっとしたことを頼まれることもあるし、最近元気か、みたいなメッセージの時もあるし、いろいろである。
スィンとはもう7年くらいの付き合いで、初めて会ったのは2013年にシンガポールで開かれたサーカスフェスティバルに行った時だ。僕はまだ二十歳そこそこだった。
スィンとしては、僕はずっと弟分みたいな感じがするのだろう。家に泊めてくれたり、コミュニティに入れてくれたり、何かとお世話をしてくれる。実際、スィンはいつまでも僕にとってお姉さんみたいな存在である。
サーカスイベントがあるよ、シンガポール来れば、とスィンに唐突に言われたのは2019年の11月末のことだ。僕の方もとりたてて用事がなかったので、お誘いに乗って人生で5回目か6回目の来訪となる、熱帯の国へ旅立つことにした。
その滞在中、僕はずっと、最近引っ越したスィンの家にいた。家はかなり大きくて、コンクリートがところどころ剥き出しで、余計なものはあまり置いておらず、雑誌で言ったら「Casa」とか「&Premium」の「シンプルな暮らし」特集で紹介されそうな家だ。
スィンは動物好きだから、猫4匹と犬1匹も一緒だった。
猫は好き勝手に家をぶらぶらしていて、ときどき食器を落としたり豆乳を勝手に飲んだりしていた。シェルターからの保護犬であるアンアンは、僕に向かってすぐ吠えてきた。人見知りの怖がりで、ドアを開けようとするだけで敵意を剥き出しにしてくる。
犬が僕に唸りを上げるたびに、スィンは「No,no, it’s ok」と優しく諭していた。イタズラをする猫には、容赦なく霧吹きで水をかけていた。
シンガポールでは毎日これといってやることがなかったので、昼間にちょっとだけ仕事をすると、遅くまで友達と夕飯を食べて、夜は大きな部屋にある小さくて簡素なベッドに潜って、遅くまで寝ていた。
さて、毎日、朝日の一番まぶしい時間を過ぎて朝10時ぐらいになると、すでに起きているスィンは、隣の部屋からこういうメッセージを送ってきた。
「コーヒー飲む?トーストボックス行く?」
これくらいのことなら部屋をノックして聞けば済む話なんだけど、なんとなく、スィンはそういうことをしない人だった。だから一週間の滞在の間、毎朝、メッセージで「コーヒー飲む?」と聞かれていた。それを読むと僕はドアを開けて、リビングに出て行って、スィンに話しかけて、一緒にコーヒーを飲んだ。フレンチプレスで淹れて家で飲むこともあったし、近所にある「トーストボックス」という茶店までバスで行くこともあった。
コーヒーを飲みながら、とにかく僕たちは話をした。
今回のイベントはどうだったか、日本のサーカスシーンは変わったか、台湾の友達は元気か、イギリスのフェスティバルはどうだったか。一年に一回会うか会わないか、という程度なので、話すネタはたくさんあった。
そしてあっという間に一週間が過ぎ、帰国する朝、僕はアンアンを起こさないようにリビングに入り、玄関からそっと家を出た。
僕は乗り換え時間が長い航空券を持っていたから、日本に着いたのは次の日の朝だった。朝早く空港に着き、乗ってきた飛行機の写真を撮り、それをスィンに送り、ありがとうのメッセージを送った。
するとしばらくしてスィンからこんな返事が返ってきた。
「そっか、もう日本に帰ったんだったね。『コーヒー飲む?』ってメッセージ送るとこだった!」
毎朝メッセージを送るまで起きてこない僕は、まだシンガポールにいたのだった。スィンと通ったトーストボックスを思い浮かべる時、僕はシンガポールの、熱帯特有のあの生ぬるい空気を嗅いでいる。僕はあの人のおかげで、ずっとシンガポールと繋がれているような気もする。■
初出: 週刊PONTE vol.62 2020/01/20 に加筆修正。
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