第407回 タイポグラフィと、英語と、あとジャグリングで言ったら、5ボールから先。

タイポグラフィの勉強をしたい。

と思った。

ホームページの改装に伴い、Webページや本の装丁を見るたび、引っかかるものがある時には、どこがいいのかな、これは、と考えるようにし始めた。

たとえば「ほぼ日刊イトイ新聞」なら、昨日はこのページを見ていた。

心が芸術(アート)をうみだしている。」https://www.1101.com/yamanami/2019-07-17.html

届けたい質感に応じて的確に字体、大きさが選択されている。

余白の取り方もパソコン、タブレット、モバイルでそれぞれちゃんと読みやすく配置されている。

(モバイル相当のpxになると、途端に背景が静止画になる仕様なんかも、本当に、配慮が行き届いてる)

 

勉強したいことが、山ほどある。

ね、なら、やればいいじゃない、という話である。

伝達に適切な文字を、かっこよく配置できるような人間に、なりたい。なりたいのなら、苦労するしかないよ。学ぶしかない。

…と言っても、「今日からできる!デザインのコツ」みたいな本を1冊、2冊読んでパッと身に付けたいたいんじゃなくて、(ある特定のトピックについて参考にすることもなくはないかもしれないけど)自分の手で研究を重ねないと、いけないよね。そこは、ラクしちゃいけないよね。

美大の学生なんかはたとえば、何年もかけてそういうバランス感覚を磨くわけだろ。

じゃあ、俺が片手間でひょいひょいできるはず絶対ないじゃないか。

しかもただタイポグラフィのことだけを考えるんじゃなくて、まずは「世界中に存在するバランス感覚の取れたもの」を観察することから始まるんだろう。

絵画にしても、プロダクトデザインにしても、自然の法則にしても、スポーツ選手の身体つきにしても、全部を、とにかく総合的に、経験的に体感していく中で、技法に関しても先人の知恵を学んで学んで、考えて考えて、トライ・アンド・エラーを繰り返しながら、じゃあ、これは文字に適用するとどうなるのか、ということを必死で考えて、やっとあの美しさを的確に繰り出せるようになるわけだろ。

「本当にやりたいこと」があるなら、そうやって一つ一つを、自分の手で、脚で積み上げる気概がないといけないよな。じゃなきゃあ、「本当にやりたい」なんて言っちゃあいけないよ。

 

ただ、タイポグラフィのことを真剣に追求するかどうかは、実はまだ決めかねている。

 

なぜって、自分に時間がないのなら、専門にきちんと本気で研究している人に任せた方がはるかにいいからだ。

そうだよね。そのほうが向こうは仕事が手に入るし、こっちは楽だし、出来はいいものになる。

 

しかし同時に自分は、今の所、こうやって「自分の手で」ウェブサイトを作り、人に文章を読ませることを選択しているわけだから、やっぱり、自分なりに、「人に文章を読ませる時のタイポグラフィの選択」は、研究を重ねたいじゃないか、とも思う。

だから、その自分にとって必要な、その線をなぞるように、でも「ちょうど」はありえないから、少しオーバー気味に、学ぶことを諦めちゃいけないな、と、また、思った。

 

ではタイポグラフィ以外で、今掲げている目下の目標は何か。

といったら、やっぱり、英語の翻訳が上手くなること。

昨日も、この本の翻訳をしていて、もっと英語そのものと、日本語の表現を学ばないといけない、と思った。ようやく入り口に立った気分です。

ジャグリングで言ったら、5ボールから先、のようなところ。

「一個一個の技の練習が長くなるゾーン」に入っている感じ。

ここからさらに上手くなるには、今までと違った練習方法と根気がいる。

今まで以上に高度なことを身に付けようとしているのだ。

じゃなきゃいつまでたっても同じレベルか、成長速度は遅々としたままだろう、と思う。

 

「捧げる」という気概があって初めて、物事って楽しくなるもんだよな。

 

ただでも一方で、苦しくてもやる、というだけでは続かないんじゃないかな、とも思う。

だってほら、自分の今までの人生を振り返ってもさ、苦しいことをひたすら耐え抜く、丈夫で、気骨があって、脇目も振らず頑張れる人間かい?僕は、って、やっぱり思うわけさ。

昔少林寺拳法をやっていた時に、一応5年間やりとおしたけど、その間、弱音ばっかり吐いていたのを思い出す。

少なくとも、「苦しくても耐えて耐えて耐えまくる」だけでは「よくなる」わけじゃないよな、と思う。

「苦しいことを耐え抜く力」というより、「なんでも『苦しい楽しみ』に変換できる力」がいいな、と思う。

つって。

横浜