編集長の書斎

2024年2月14日

古風なテキスト形式で、「PONTEを編集する日々」を積み重ねていく。

とある。この日記の最初の部分である。その後しばらく僕はこのサイトを放っておいた。だからあんまり書いていない。今、また日記を書いたり、ポッドキャストをやったりして動かし始めている。だから、ここへの記録を再開する。最近のテーマは「発見される」という態度。文を読んでいて、いいなぁ、と感じる。それは、その文章の中に読み手の方が、勝手に素晴らしい意味を発見したのだ。ここが読みどころなんです、と言われると興が醒める。それがあらゆることの本質であるように思う。よさとはいつでも、勝手に発見されるもの。それがクールだ、ということ。逆にみると、発見される存在である方がクールだ。そう考えると、すぐにジャッジされちゃうような場でクールでいることは難しい。アピールしないといけないから。アピールをしなくていい世界で思い切り動いていたい。■

2023年8月14日
「詩について考えたこと」

 ずいぶん長いこと、「詩が読めない」と言ってきたんだけど、それをもうやめよう、と唐突に思い立った。今朝起きて突然(本当に突然)自分が深くもぐったことがないものにいきなり拒否感を示すという態度が、全然いいものだと思えなくなってきた。
 確かに「詩が読めない」というのは、僕にとって事実だった。その原因を探ってみようと、いま、改めて詩をじっくり読んでみた。すると、わかった。 「情景を想像するために必要な時間を持てない」というのが主な理由だったのだ。じっくり集中する時間を持とうとすると、いら立ち、焦ってしまうのだ。
 先日「ピクミン」をプレイしていて感じたことと、つながる。僕はいつからか、効率よく物事をこなすことの快楽を覚えた。それが「次々に知識を得たい」という欲求と合わさり、本の読み方も変わっていった。それがやがて「文章の中にある情報を最速で抜き出す」という読み方をするよう僕に促した。
 詩を『読む』とき「書いてある情報を最速で抜き出す」という読み方で読むわけにはいかない。そこに置いてある文字列を前にして起こる頭の中の運動を、よく観察し、それを楽しまないといけない。当然だけど、「読む」とひと口に言っても、新書を読むのと、詩集を読むのとでは行為の中身がぜんぜん違う。
 僕は、詩を読むという行為に、どこか「隙がある」と感じていた。それは、詩を読むという行為が、「相手の懐に無防備に入る行為」である気がして。多分、悔しかったんだと思う。相手が用意した世界に、こっちから努力して近づいていかないといけない、ということに反発を感じていたのだと思う。
 でもそんなのは、実に軽薄な括り方だと今朝、唐突に、痛切に感じた。僕はただ、自分よりはるかにたくさんの切実な経験と豊かな思考を以て、優れた表現に昇華できる人に対して、恐怖を感じていただけなのである。それを「詩」というジャンル全体への大雑把な攻撃(だったと僕は思う)にすり替えていた。
 「詩を読む」という行為のある時点に、「隙がある」と感じる瞬間があったとして、それは「詩を読む」という行為すべてに当てはまることでは、決してない。そういう捉え方で拒否感を示すのは、まさしく僕が「詩をまともに読んだことがない」ゆえである。
 そして僕は、実に一面的な理解で、詩というものを自分から遠ざけていたことも本当は心の底でわかっていて、ちょっと勇気を出して飛び込んでいけばきっと豊かな世界を知ることができることも知っていたのに、今まで自分が間違っていたことを知るのが怖くて、近づくことができなかったのだ。
 実際に詩の世界に入ってみて、自分で幾つも作品を味わってみて、こういうのはいい、こういうのはよくない、と自らのために批評できる視座を持てるようになれば、怖くなんかないはずなのである。「怖い」のは、その中身をよく知らないからだ。知れば、どう対処すればいいかわかる。
 相手の懐に入るのが怖いと思っていたら、ずっと逃げるか、そのリーチが届かないところから攻撃をする羽目になる。そうじゃなくて、まずは勇気を振り絞ってバッと間合に入り込むところから始めないといけない、と思った。何度もとっくむうちに、自然と自分がやられない距離感はわかってくる。
それこそが、人の作ったものを鑑賞するに当たって、批評的な視座で見る、ということでもあるだろう。その作品を享受するに当たって、自分が取るべき適切な距離をすぐに判断できる、ということだ。
 逆に言えば、何かを前にして、一面的な印象から「ジャンルで一緒くたに嫌う」ことは「批判的な目で世界を見ることを放棄している」ということと同義なのだ。

 ある問題の解決方法に、名前がつけられ、用語が整理され、理論が確立される。 するとそれを教える人が出て、その大家をフォローする人が多くなる。 けど一個の問題の「解決方法」が洗練されればされるほど、問題の枠組みが固定化され、『それが本当に問題なのかどうか』という問いが発しづらくなる。
 そもそも何が「問題」なのか、という根幹を、常に揺らし、動かし、もう一回自分で考えて、実践で問い、また別の問題を暫定的に設定し、またそれも揺らすことのできる人のふるまいを、できるだけ多く知りたいなと思っている。■

2023年7月27日

 朝から少し離れたスターバックスに行って少しポルトガル語をやって、家に帰って猫と遊んで、それから桜木町のスターバックスに行って文字起こしをして、今は図書館にいる。「SPELLING LIFE」というペラのフリーペーパーを作っている。KUFS(港北外国語大学)の学報、という位置付けである。本来的にこういう学級新聞みたいなノリのものを作るのは大好きだったはずなんで、ただそれをやればいい、ということである。スマしたものを作ろうとしちゃいけない。ただ読んでゲラゲラ笑ったりちょっとしんみりしたり、そういうものでいい。僕はそういうサービスは得意なんだから、どんどん形にして出すのが一番いいんだ。ああ、楽しみ。■

2023年7月26日

 家でずっと仕事をするのが苦手だ。切なくなってきてしまうのだ。人と過ごしたくてしょうがないのである。本質的にとても寂しがりなのである。ずっと家で過ごせる人ってどうなってるんだろう。僕には本当に、それができない。せめてカフェや図書館にでも行かないと集中できないのである。といって、ずっと人と一緒にいるといいのかというとそうでもない。■

2023年7月25日

 差別にも、いわゆる”ハラスメント”にも、迷惑な行動にも、一個一個に個別の状況がある。実は事実を細かく見てみると、ミクロな文脈の中では、一見これはダメなんじゃないかと見えるアクションが、そっちの方が全体としての結果が良くなっている、ということは十分存在しうる。だから、大変だけど、個別の文脈を、一個一個ちゃんと見極めようとしなければならぬ。想像力と知性を組み合わせて生き抜くのだ。
 しかしこうして個別の事象をきちんと毎回見極めようとする時、真摯に対応できるのは本当に身の回りの、顔を合わせて話す可能性のある人たちの間での関係ぐらいだと心底思う。遠くにいる人の遠くで起きている出来事について正確な判断を下すというのは非常に難しい。全体で見るとバランスを欠いた批評をすぐしてしまう(それでも言うんだ、というのも態度としてはいいけど)。ものごとの事情というのはまず単純に言って、スゴク混み合っている。そこで「混み合ってようがなんだろうが、とにかくこういう行動は自動的に差別的だ」という反応を(たとえば)見ると、短絡的である、と思わざるを得ない。真摯に弱者の気持ちを考えているようでいて、実は思考を停止するのがやや早い態度だと思う。つまり、想像力をまだ十全に発揮していないのではないかと思う。もうちょい先にいけるんじゃないか、って。
 反発の気持ちはどうあれ、その反発をあらわにする手前で、その非難しようと思っている行動が、実はトータルで見るとベターな選択である余地を残した上で、さまざまな可能性を検討する、というところで、すんでのところで止まって一生懸命考えることが真摯であるということじゃないか。体力・精神力は使うけどさ。もちろん主観的に「こういう行動は私は嫌いだ」という感情は感じるし、むしろそれを正直に言ったらいいと思う、それを、下手により大きな文脈の上で、こういう文脈があり、こうだからこれはコレクトな行いではない、という大義を持ってきて自分の感情が肯定される担保にするのは僕は時にこれを卑怯だと思う。■

2023年7月22日

 スパイダーマンの映画見た。今までみたスパイダーマン映画の中で一番よかったかもしれない。今年見た映画でも一番よかったかもしれない。スーパーヒーローものの続編にしては、未見の人をあんまり置いて行かず、ちゃんと過不足なく説明している感じもした。これはスパイダーマンを未見でも、誰が見ても面白いと思う。
 今横に猫がいる。ぽんちゃん。家にいるときいつも猫の横ではあんまり仕事をしないんだけど、せっかくいるんだしなと思ってなんとなく猫の横に移動してきたらスッと逃げた。ああ、寂しい。■

2023年7月21日

 朝起きて起床から30分でさっさと来ればいいのに、家で迷ってから図書館に来る。今日行くべき場所の最適解があるんじゃないか、と考えてる。毎日新しくて楽しい場所に行きたいと思っている。つまり俺は面倒くさがっているということである。「テレビをつければ面白いものが映る」という思考と同じである。■

2023年7月20日

 早く寝て早く起きていれば、それだけであんまり悪いことは考えないんじゃないかな、という気もする。昨日は韓国から遊びに来ていたシンさんとビールを飲んで帰り、それから絵を黙々と描いていたので、寝るのがちょっと遅かった。起きた時から身体の調子が良くなくて、その影響で心の調子もよくない。気合いが入らなかった。
 だけど、こうして文章を書く状態に一気に持っていくとその刹那、今度はこの文章を書くことの興奮から抜け出せなくなる。さっきまで僕は頼まれ仕事が嫌だなぁと思って、さっさとやればいいのに、気が散ってばかりで、うつらうつらしたりして、とりあえずラーメンなんか食べに行って、で、途中で「いい大人なのになんだか情けねぇや」と思い、そしてそういう戒めの気分はやっぱり必要だと思ったりなんかして、暗い気分でいたのが、こうして自分が思うように想像力を発揮できるとなるや否や、急にダラダラしていたら時間がもったいなすぎる、という気分になって、テキパキ動き出した。
 自分がやりたくない仕事は本当に、やらない方がいい。こうして文章を書くとか、自分が深く満足する遊びを思う存分やる方が、意識ある存在として一応この世に80年前後くらい在籍する身としては、いい感じの過ごし方、お天道様も喜ぶあり方だ。なんとなく、でへーとだらしない自分を言い訳してる場合じゃないのであります。もっと単純に遊べ。作れ。■

2023年7月19日

 ポルトガル人の友人が日本語をDiscordで勉強している。そのサーバーには、世界中から、日本語を学ぶ人が集まっている。決まった文法事項を使った文章を毎日、自分のマテリアルから見つけてきたり、疑問点をお互いに聞き合ったりして、数人がやり取りしている。
 それと昨日、韓国ジャグリング協会のシンさんからFBメッセンジャーにメッセージが来た。
 どちらも、僕にとって外国の人が日本語を使っている様子を観察する機会だったわけだが、母語話者ではない人が使っている日本語の質感は面白いなと思う。同時に、僕自身が外国語を話すとき、こういう質感になっているんだろうなと思う。大人になってから習得した人でも、ものすごくレベルが高い日本語を操る人も時折いるけど、それでもやっぱり、何か質感が違う。

 今自分が存在している空間全体の質感を捉えて、その言語化できない質感が、たまたま音になってひとつの手段として出てきている、そういう感じが、ある言語の母語話者が話す言語だ、という感じがする。それがかなり、現実と漸近している感じがする。母語ではない場合、そこに乖離があるのであろうことが割とはっきりわかる場合が多い。
 もちろん、自分の思考をほぼそのまま頭から流し出す手段として、距離を限りなくゼロに近づけようとしながら、母語ではない言葉を身につけようとする態度も、ありうる。というか、余儀なくそうせざるを得ない人もたくさんいるはず。僕は趣味でやってるからそこに本気にならないんだろう。■

2023年7月17日

 すーっと、書き出してみる。一日一回、ただ自然に従った文章を書く。昨日は夜中遅くに、頼まれ仕事をやった。といっても、取り組んでみたら2時間もかからずに終わった。でも、どうも取りかかりが難しかった。そういうことってままある。取り組み始めたら2時間で終わると知っているのに、1ヶ月間取り組むことができない。これは僕は、怖いからだ、という認識でいる。取り組み始めてしまったら、その膨大な量に気づいてしまうから、怖い。とにかくそういう時は、その恐怖心を抑えていかないと、10年経ってもスタートしない。
 日常にも十分スリルはあるのだ。怒られそうだ、とか呆れらそうだ、と、人に悪く思われそうな予感はいつだって怖くて、お化け屋敷のお化けみたいにその辺にいる。でもお化けに話しかけたら、怖くないだろう、ということなんだ。向こうから自分を脅かしにくる、僕はそれに対して何もできない、と勘違いしているから怖くなるのであって、実際、ずんずん進んでいって、ねえ、ちょっと聞きたいんですけどね、と一瞬でお化けに向かって話しかけたら、何にも怖くなくなる。

 怖いと言えば、思ったことを率直に伝えるのもとても怖い。怖いし、ちょっとめんどくさい。なるべく差し障りなく受け取られるように、調整しないといけない(と少なくとも感じる)。そういうのが面倒で、「コミュ障」とか自分から言う人がいるのも、わからないでもない。
 で、僕はその仕事に関して、頼んでくれた人に、感じたことをそのままに伝えた。
 ・とにかく思ったことをできる限り率直に伝える。
 ・やりたいことがあるなら、自分が怯える前にさっさとやる。

これが今の僕のブーム。■

2023年7月16日

 余計な情報が入る前に、僕が思ったことを素直に書いておこう。
 公開初日に、『君たちはどう生きるか』を観た。悲しい映画だ、と思った。ぱっと出る感想としての言葉がそれしかなかった。だから本当は悲しい、じゃない。えーと、なんだろうこれは。ちょっと密度の濃いため息を吐いて眉間にシワがよる感じ。監督に課題を投げかけられ、立ち去られたような感じ、か。
 ほぼ満席だった劇場からは、観客が、みんな何かを考えながら、映画館をあとにしているように感じた。
 しかし、いい映画だ、と思った。さっすがミヤさん。僕が宮﨑駿の映画で圧倒されたいと思っている感じを、見事に実現してくれていた。
 いつにも増して、文学性があった。ところどころにある、場面の飛躍と、セリフの飛躍が印象的だった。あれ、今主人公はどこにいるんだっけ? えっ、この人はこれをなぜ知っているんだっけ? なんでこれが当たり前みたいに受け入れられているんだ、今会話噛み合ってなくなかったか? と混乱することも度々あった。でもそれは見せ方や脚本のミスではなくて、意図的に話の流れを随所で脱臼させる手法だろう。人為的に、無意識を投影した「夢」のような状態を作り出している。
 音楽でいうなら、今まで聴いていたのとちょっと違うところから「ポロン」と急に音が鳴り響いて、オヤ? とビックリして、でもそれが面白い、心地いい、とおもう感じ。それが、深い奥行きを感じさせる装置になっている、サラウンドシステムみたいになっている。「あるもの」と「あるもの」の距離感によって、そこにないものを想像させる立体感が生まている。登場人物の少なさと時間軸の頻繁な交錯もそこに加えて、「客観的な時間の流れ」よりも、「ヒトの意識の流れ」の方に寄り添ってつくった話の作り、という印象。あるひと一人の頭の中をのぞいているようだった。そのおかげで、「個人の葛藤」が話の中心にある、とより感じやすくなっている。
 その葛藤はもちろん、マヒトの母が恋しい気持ちと、義母に対する複雑な心境のせめぎ合いである。ところどころで、義母の夏子さんがマヒトに触れてハッとするシーンがある。実の母であったら感じないであろう、少し性的な感覚も表現されている。お母さんがいなくて寂しい感覚、父と「新しい母」がむつまじくしている感覚、夏子さんがまだ若くて美人であることが余計に苛立たしいこと、色々ある。
 アオサギは、マヒト自身が、実母に執着する気持ちを代弁している。
 あのおっさんみたいなアオサギは、まず最初、夏子さんの家に着いたときに、スイーっと、横切ってくる。お母さんが恋しい、という予感がするのである。そして、初めて口を開いた時には、「マヒトさん助けて」と、マヒトの苦しい妄想の中にいるお母さんと同じことを喋る。館に着いた時は、アオサギから、お母さんのレプリカを見せつけられる。そういえば、お母さんがドロドロに溶けるあのシーンも、「夏子さんはどこだ」と聞いてるのに、当然のように実母の方を紹介される、変だ。マヒト自身、だいぶ実母のことを考えているんだ。
 冒頭ではだいぶアオサギは嫌なやつだ。1番執着が激しい期間だからだ。でも最後には友達になる。
 アオサギこそがこの映画の中心で、それで、この作品を象徴するメインビジュアルになっているんだろうね。非常に煩わしいものであるんだけど、でも最後には、友達だ、ということで一旦折り合いがつく。アオサギは憎たらしいし怖いけど、とても大事な感情の象徴だから、映画の中では一度も無碍にされない。最後はマヒトとヒミを両足に吊るして、一緒に守ってくれる。マヒトは、一度はその感情を追い払おうとして矢で傷をつけるけど、また治してやっている。
 いつものジブリの映画と何か決定的に違うところがあったようにも思う。それは、この映画にははっきりしたカタルシスがない、というところかもしれない。これはあるいは『千と千尋』以降あたりからずっとある感覚なのかもしれないけど。
 余計に深いレベルで真剣に課題に対峙しているように感ぜられるのだ。大人の映画なのだ。
 「誰かと喧嘩したあとに、お互いに話す時間ができて、完全には許せているわけじゃないんだけど、一応言いたいことは6割くらい言えて、まだわだかまりはあるんだけど、とりあえず一緒に過ごしている時」に似た感情で映画がおわった。つまり、今の所できる解決策はとったんだけど、まだ緊張感がある。「めでたしめでたし」じゃなくて、「よしここからどうするかがキモだ」と、「あと」の方が課題が大きくなっている。
 もうお歳など考えると、本当に最後の作品なんだろう、とおもう。いや、またもう一本作ってくれたらそれはそれは嬉しいけれども。でも、宮﨑さんとしては自分の記憶と、考え方を最後に一旦残すような気持ちで作ったんじゃないかとは思う。あとは自分たちでやりなさいよ、もう私は十分この世の中に働きかけてきたから、これ以上私に頼るんじゃないよ、という感じがした。でもそれを、知ったような顔で高みから言うんじゃなくて、あくまで全力を見せつけることでそれを言ってくるんだ。
 『君たちはどう生きるか』というタイトルは、とても軽く、そして重いものに感ぜられる。■

2023年7月9日

 角幡唯介著『狩りと漂白 第一部 裸の大地』を読み始める。いっとき僕は冒険の本にハマっていた。その頃はよく愛知県に行っていて、よく図書館で仕事をしていて、そこで角幡唯介さんと高野秀行さんの対談本を読んだのがきっかけだった。
 なんとなく日常をぼーっと過ごしている。失望するのは、希望を持つからだと思う。失望しないように希望を持たない、という戦略を僕は嫌いでいたし、多分これからも嫌いなのだろうと思うので、逆にとことん希望を持ってやる方がいいのだと思う。■

2023年7月7日

 神奈川近代文学館で、武井武雄の刊本作品を見てきた。こういう人がいるから、自分は永遠に何かを徹底的にやったなんて言えないね、と思うのである。■

2023年7月6日

 三日続いて早起きをしてて、ここで「ヨシヨシ」とか思わずに、ただ黙って続けていく、嬉しくも悲しくもないみたいな表情で進んでいきたい。
 フィンランド語の文法を一回全部見通そうということで、全90課の問題集を、1日3課やると決めて取り組んでいる。ちょっと大変だけどできないこともない、というくらいの感じで、ちょうどいい。今日で15課まで行った。全然丁寧にやっている気はしないし、以前よりもめちゃめちゃ気合を入れているわけでもなんでもなくて、ただやる量を決めて毎日必ずやる、ということを実行しているだけなんだけど、それだけで、知識が確実に脳に蓄積されている。■

2023年7月5日

 行動の端緒だけ決めておけばあとはなんでもいい。というわけでこのページを開いて、何かしら書く、ということだけを決める。今朝も朝からモルックをやった。昨日会ったおじさんおばさん達もまた話しかけてくれたり、昨日は交流することができなかった犬と交流できたり楽しかった。ヤマザキOKコンピュータさんが(彼とは一度横浜の本屋でお会いしたことがある)面白くて追っているんだけど、自身のウェブサイト「やまのあな」でみんなウェブ1.0やろうぜ、ということを言っていて、そうそう、そうなんだよ、と僕も思う次第で、こっちで日記をせっせとつけているのもそのせい。
 文章が書けないっていうのはどういう状況かということについて今一度考えている。要するにそれは、文章を書く身体能力を有さないということではなくて、「納得する文章が書けない」「面白い文章が書けない」ということを、「文章が書けない」と表現して言っている。だから、「文章がかけるようになる」ためには、ただ単にその身体能力を発揮すればいいだけなのである。こうして、何にも考えずに頭に浮かんでくる音声を書き取るだけで、文章というのはどんどん生まれてくる。もはや今、僕は画面すら見ていない。画面を見ながら打っているとどうも途中で反省してしまって戻りたくなってしまうからである。何か創作をしている最中に反省して全部消してしまうことほど創作を妨げるものはない。ただ何かを作り出していたい、ということが僕の今の目的なので、とあれば、もう面白いとか面白くないとか納得がいくとかいかないとか、綺麗であるとかそうでないとかそんなこと何にも関係なしに、とにかく反省しないで突き進んでいくのが良い。で、僕はたとえば外国語の学習ということにおいても同じようなことを思う。いま、こうして、まるで文字起こしをするみたいに頭の中を文字にしている、これ、いいね。頭の中に流れている音声の文字起こし、という表現。まぁそれはいいんだけど、外国語を勉強するに際して、あまり正確に、わからないことを全部わかろうとしてやると進むのが嫌になってしまうことが多い。結果、何もやらなくなってしまって、それで学習がストップする、ということがある。でも、何かを学習することって、少なくとも初歩の段階では、何も考えないでただ慣れる、習う、ということが大事であって、そうなると、何も考えないこと、反省したり、残念がったりしないでただ通過させることが大事で、そうなると、今こうして批判スイッチを切って全てそこにあるものを写しとっているみたいな感じで、教科書に書いてある内容をただ書き取ってみるとか、音声をひたすら口に出してみるとかそういうことが必要である。僕の前には今南アジア系の人が二人仲良く隣同士で座って、日本語の教科書の問題を熱心に解いている。これでいいんだよ、と思うのである。変に方法を工夫しようとしないで、ただ書いてあることをやって、それで、解放された時に、初めて、その「詰め込んだ知識」を有機的に使う時が来るので、単純作業であるべき学習の段階で変に有機的に工夫をしないほうがいい。で、これは何かを創作するという時にもやっぱり一緒だと思うんだね。魂を込める、というのは、別になんでもかんでも批判的にとらえながら逐一やる、ということではなくて、作業は作業としてむしろ無心でやる、ということの方が、創作自体を前に進めてくれる。創作をしたいという欲はとにかく何かを文字とか絵とか形にして現出させたい、その”かさ”を目の前で見たいという欲に他ならないのであって、その質を上げるには、その場でうんうんと考えるんじゃなくて、むしろ創作をしている以外の時間で何に触れるか、どんなものを読むか、何を聞くか、誰と喋るか、何を食べるか、何を料理するか、どんな面白いことをするか、そういう経験が還元されるんだ。創作の時間と、その栄養分となる体験の時間を切り離すことだ。何か面白いものを作りたいと思った時に、作り出すその場で面白いことを捻り出そうとしても、大体うまくいかないんだ。自然体で何か溢れ出てくるものが面白い、ということの方が、楽だと思うんだ。そうやって文字列をたくさん吐き出した後になって、それを編集することはできるけど、何も手元にない状態で編集をすることはできない。まずは材料を露わにするためにこうして文章を書いていると言ってもいい。こうして文字になった後だったら、いくらでも編集したり、あるいはカットしたり、もう少し付け足したりすることができる。それでいいのである。今僕は、MacBookにサブ画面を繋いで、わざとそのサブ画面が視界のはじに映るようにして、画面を見ないように文字を打っているんだけど、これがなんだか、人と話しているときの感じに似ていて、自分が発している言葉が目の前に見えないというのがとても面白いし、こうしてただ流れるように文章を書きたいと思っている際に非常に有用である。自分が作ったものを作るそばからすぐに読む癖を直したいんだ。ついつい見ちゃうもんね。見ない方がいいんだ。ただ出てくるに任せて、一旦完成するまでは作ったものなんて客観的に見ない方がいいと思うんだよね。そういう意味で僕は会話の方が得意だ。おそらく多くの人は、文章の創作よりも会話の方が得意だ。それは、自分が作った意味内容を自分で確認する必要がないから、いちいち自省しないで済むからだと思う。■

2023年7月4日

 ここは一体日記なのか、今思っていることを書く場所なのか、と考えたんだけど、今思っていることを書けばいいんだ、と思ったので、今思っていることを書く。
 ここ数日映画欲がとまらない。『BLACK MIRROR』のある一話を見たのが原因。ちょっと久しぶりにBilingual Newsを聴いていたら(英語学習者はぜひ一度あれを聴いてみるべきだ。僕は2015年から断続的にだがずっと聴いてる)触れられていたから観た。シーズン5までは全部観ていた。多分それもバイリンガルニュースがきっかけだったと思う。
 今回のシーズン6は、どれが一番ということはない感じで、これは大傑作だ、と思うエピソードもあったわけじゃないのだが、どれもブラックミラーやってるなー、という感じで満足。僕はこのドラマを説明する時、いつも「ダークな星新一のショートショート」という形容をするんだけどこれは妥当なのか。
 で、そのままの勢いで、『マトリックス:レザレクションズ』『ゲット・アウト』と観て、今は『エルヴィス』を観ている。■

2023年7月3日

 アウトプットをよくするには、体の調子が良くないといけないと身に染みて感じる。あがくのではなくて、むしろ心ゆくまでゆったりできる時間と空間を持つことに厳しくなる、ということなんだと思う。
 時々、自分を少し過度に律したくなることがある。それは、僕が普段全然律されていないからだ。なんで俺はこんな甘いんだよ、と思って、それで自分が納得いくものを大量に生み出したい、みたいな気分になって、じゃあそのためには自分を律しなきゃな、そんな回路で、自分を律したくなる。
 さっき僕が自分に向けて書いたノートにこうある。

 ・時間をかけて大きくて面白いものをつくりたい
 ・関わりたくないと思うものは、「少しも」摂取しない、代わりに、関わりたいと思うものを毎日苦しんで摂取したい。
 ・早寝早起きを推進したい。
 ・荷物を固定化したい。

 関わりたいと思うものを毎日苦しんで摂取したい、というのが一体どういうことか今となってはわからないけど、でもちょっとわかる。苦しむ、といっても本当に苦しむのではなくて、少し緊張した状態で好きなものを読んだり見たりしたい、という意味である。
  「〜〜をしたい」と宣言するくらいなら、さっさとその場で実践をして成功するか失敗するかを見るべきである。僕は今何かをとにかく量を伴って生み出したいと思っているのだから、こうして、今現在思っていることを、後に戻らないような気持ちでどんどん書いてみている。それでいい。後戻りできない形でずんずん進んで何かを作っていくのがいい。
 積み上げ方が下手なんだ、僕はさ。後になって自分がうまく納得できるような形で自分のすることを積み上げるのがうまくない。だが、うまくない自分からスタートするしかないし、それを「変えたい」とか宣言するのには一番意味がないこともよく知っているから、ただ、行動の方を少しでも自分の好ましい方に持っていくように、今この瞬間に何をするかについての選択を変えるべき、ということである。
 苦しみたいなら、今苦しむべきなのだ。ちょこっとだけチャレンジングなことをするのだ。
 で、チャレンジングなことをするには、ひとりで思っているだけでも難しいから、こうしてちょっとだけ書いておくのである。というわけで、明日は6時に外に出ることにする。そのためには、早く寝ねばならぬ。というわけで、今いるスターバックスからも、もう午後7時だから、そろそろ出て、家に帰ってさっさかご飯食べて、9時には寝るんだよ。ほら、行動がもう変わってきた。■

2023年6月24日

 一行でもここを毎日続けるのが重要じゃないか、という気がしてきた。不完全でもいいから。昨日は逗子にいき、中学生と一緒に英語。毎回行きの電車の中で、今日はどうしようか、うまく、楽しくできるかなぁと心配になっているけど、とても楽しい回になった。僕が中学生の頃に使っていた教科書を読んで聞かせて、意味を問う。一度はやっているのでスムーズ。
 どうやって教えたらいいのか、いまだに悩んでいる。自分が教わってきた通りにやるのであれば、教科書の課を順番に解説していって、問題をやって、と進めることになる。でも僕は自分が外国語を習得してきた過程で、文法先行のやり方が効果的だったという気がしない。もっと実践的に、使われている場面から自分で抽出してくるやり方の方が合っていたと感じている。それから、気になったときに文法書を参照して、答え合わせをする、という方がいい。深まる感じがする。だから今教えている人にも、極力、実践でどうなるかということを重視して展開している。彼も直感タイプなのである。
 夜、家にたどり着いた頃、急に悪寒がし始める。午前中にガーゼを買うついでに買っておいた体温計で(コロナ禍の間も、ずっと家に体温計がなかった。体温が測れたらいいなと思うことが何度もあったので、昨日ようやく買った。遅い)熱を測ってみたら、37.2度、微熱だ(平熱が36.0度くらい)。数字が出たら途端に熱があるという事実が意識されて、ごろんと横になって、やる気が出なくなって、猫と喋った。だが寝る支度を十全にしないままに寝ると余計に具合が悪くなることも知っているので、(気持ちがスッキリしない状態で寝ることを繰り返すと、みるみる不健康になるんだ、ホントだよ)えいと気合いを入れて、シャワーを浴び、虫刺されの傷口を消毒して薬を塗り、飲み薬を飲んで、それから寝た。朝起きたら、すっかり熱は下がり、膝の腫れも少しマシになっていた。■

2023年6月23日

 先週末から今週の火曜日にかけて岩手に行っていた。楽しかった。イベントでジャグリングをして、終わったら龍泉洞という鍾乳洞を見に行って、向こうにいる人たちと仲良くなった(ような気がしている)。岩手に行っている間によくわからない虫に刺されて、膝とももがパンパンに腫れた。そのせいで歩くと痛い。全然関係ないけど、とにかく流れるように自分の頭に思い浮かんだことを書いていたい、と唐突に思った。僕がかつて坂口恭平氏のそういう文章を読んで、自分でも書こうと思って連載と称していろんなものを書いていた頃のnoteを紙に印刷しておいたものを読んで思ったのである。それで、僕は今日これから逗子に行って中学生に英語を教えるんだけど、その時にも、プリントみたいなものを用意して、やはりそういう自分で作る工程みたいなものがあって初めてやることが楽しくなるんだろうなと思った。■

2023年6月14日

 とにかく何かを書きたい、何か知識を吸収したい、という欲がある。
 まだマリオを見た時のことを考えている。面白い、と素直に感じることを間髪入れずに見せるの、本当にいいね。「大事なことを言うこと」よりももっと大事なのが、「面白いことを言うこと」なんじゃないかと思えてきた。
 中国語、会話に重点を置いてボツボツ表現を覚えている。ベンガル語、まだ基礎的な文法が頭に入っていないので引き続き教科書を丸覚えする。韓国語も同じく。文法を意識的に勉強したことがないから、それをちょっと無理して頭に入れてみる。それと並行して、具体的な表現を聞きながら覚える。本来的にはそっちの方がいい。すでに知っていることの明快な説明を読んだ時に、人は「なーるほどな」となってスッと覚えるからだ。文法を先に紙面上で頭に入れてからそれを駆使して文を組み立てる、と言うのは、なんかやたらに回り道であるような気がしてならない。で、間違えるしさ。耳と口でまず言語を覚えること。それから頭を使うこと。

 「僕としては〇〇って普通のことだと思っていたんだけど、どうもそうじゃないみたいで、びっくりしました」みたいにナイーブに驚いているふりをして自慢をするタイプの文型を使うのを本当にやめた方がいいよなと思う。こういうそのまんまの文型を使うことはあんまりなくなったと思うが、まだこれの亜種を使っちゃうことがあるからこれは自戒である。■

2023年6月13日

 晴れていて天気は気持ちがいいのに、暑すぎるせいかだるい。朝は絵を描き、それからにゃらやに行って中国語を一緒にやって、家に帰ったら昼寝した。動けなかった。起きたら3時で、石堂書店に本を買いに行って、それを家で梱包して、最近子供の生まれた友達に発送。OKストアに、ボールに詰めるための塩を買いに行ったのだが、置いてなかった。前はOKで買ったと思ったんだけどな。もう一つの、みなとみらいにある大きいOKに行ったが、そっちにもない。しょうがないので割高だけどAmazonで頼む。

 本気で淡々と作品の仕上げている人の様を見ているのが一番刺激になる。あとはもう亡くなっている人。とにかく一日ひとつずつ何かを本気で仕上げていった先にあるものが見たい。あとは同時に、賢く準備がしたい。■

2023年6月12日

 有線イヤホンで音楽を聴くのが心地よくて、無印のイヤホンを見に行ったんだけどなんかしっくりこず、その途中で紀伊国屋書店に寄って語学署のコーナーを見ていたら、トルコ語の本で「ニューエクスプレスの続編にあたります」という一文があり、そうか、そういう本の出し方あったんだ、とハッとしてなぜか言葉の勉強をもっとしたくなった。で、この日は韓国語のスキットをずーっと聴きながら歩いた。カフェに行って、マーロン・ブランドとか、黒澤明のこととかばっかり調べていた。なんだてウェブサーフィンをし始めるとキリがないね。■

2023年6月11日

 映画『スーパーマリオブラザーズ』を観る。これよ、こういう映画が見たかったんだよ、と興奮。本気のエンターテインメントはいいね。僕がちょうどやってきたマリオの懐かしいゲームへのオマージュが、視覚でも聴覚でも色々とあって、楽しい映画体験だった。映画を観て、楽しい、というの、すっごく大事な感覚なんだよ。小難しい映画を観て、その隠喩の意味することがわかって嬉しい、とか、文学的な作品によって現実の生きづらさから救われた、とか、まぁいろんな体験があっていいんだけど、俺が何か作品とか、人の発表するものに求めているものって、喜怒哀楽で言ったら、喜と楽の部分が大半を占めていて、とにかくゲラゲラ笑えたり、ニヤニヤできたり、わっふー、と興奮できたり、そういう楽しい感情なのだと思った。いや、実に、気づきの多い映画だった。これでいーんだよ。

 最近は、語学がかなり広がっている。ベンガル語、やはり口と耳で覚えて、それを文字で追認する、というのがいいなと思った。あらゆる語学においてこれは言えるだろう。『ハングルの誕生』(野間秀樹)を読んでいてその思いを強くする。著者野間さんは文字と音は違う位相にあるのだ、ということを強調する。僕は野間さんの書く教科書が好きで、それはやはりことばに関する深い洞察に基づいていることが分かるからである。音を優先して学習する、ということは、かなり骨が折れるんだけど、そもそも外国語を習ふということは、骨の折れる作業なんだ、ということである。まず音があり、それをどうにか空間に光の反射という形で目に見えるような、保存性のある形式にするのが文字であって、その順番をよく意識した方がいい。のじゃ。■

2023年5月19日

 家を出ようと思って、じゃあ行ってくるからね、と猫をからかって遊んでいたら、急に気だるくなってきた。ベッドに横たわってInstagramを見始めた。ウェブや広告、名刺のデザインのノウハウを無料で公開している動画が流れてきた。静かな部屋なら大きな声を出さなくても聞こえますよね、それと一緒です、余白をとって、その中なら小さい字でもよく見えるでしょ。内側に行くほど余白は小さくするんです。オフィスと一緒、社長と秘書がこんな離れてたらやりづらくてしゃあないでしょ、関係のあるものを近くに寄せるんです。ここは2ptの線でボタン作ってるけど、それと合わすために全体のまで2ptなったら枠が勝ってしまうから、ドロップシャドウがええですね、しかも、黒やなくてちょっとだけ背景の色持ってきて、その色を暗く落としたやつで影を作るんです。別の色を持ってくる時は、彩度は合わせたまんまで、色相だけ変えるんです。などなど。実に論理的で理由がはっきりしていて、しかもその指摘通りやると、確かに綺麗に仕上がる。こういう知識を一つ一つ身体化しようと思ったら、そりゃあ、5年、10年とかかるよなぁ、と思った。でもこれはどんな分野でも一緒で、何かホンキでモノにしようと思ったら、こういうふうに、ちゃんと精密に、10年かけないとしょうがないよなぁ。

 なんでもチャチャッとやっちゃえるのがいい、と思っている。やりたいと思ったことを、2、3回試したら理想の形通りにできたらいい、と思って気分で物事を進めている。でもこれは、まともなプロと正面から対峙して接することがないから、こんなふうに思うんだろうな。いかんいかん。■

2023年5月10日

noteで文章を書く習慣としての連載を続けていたけど、PONTEに戻ることにした。noteやTwitterは所詮人付き合いで、楽しいものでもあると同時に、自分が孤独になる時間を奪っていると思った。そしてこういう根本的な違和感は、すぐに具体的な方法で解決した方がいい。というわけで、でも文章はまだ公開された状態で緊張感を持って書きたいから、もう少しスローな、シェアしづらい媒体で文章を書くことにした。つまり、この独自ドメインで、自分で運営している、PONTEの、しかもちょっと奥の方のこのコーナーだ。「編集長の書斎」である。Webサービスだって道具である。必要なときに必要な道具を見極めて使うようでないと、具合が良くない。使われるんでなく、自分で適切に使い分ける。広く知ってほしいことと、自分が密かに積み上げたいことを一緒くたにしちゃいけない。広告が入ったり、他人の書いた文章がひっきりなしに入ってくる環境で、競うように何かを書いて、それが水泡のように消えていくより、こっちでじっと推敲している方が楽しい。僕は今、孤独な時間を、独自に積み上げていくことを欲していて、それは、これまで十全に遂行できていなかったことである。これまでよりもっと面白いところに、自分の脚で行きたい、と思っている。より具体的に言うと、「自分が読んで面白いものを書きたい」とか「自分で見て満足する絵を描きたい」とか「自分で読んで笑ってしまうような漫画を描きたい」ということだ。が、今まで、自分が楽しむためのものは、自分で作れる、という事実すら忘れてしまっていたんだ。「人を喜ばせる」という視点ばかりが先行していた。人を喜ばせるにしたって、自分で作ったものは、まず自分で味わうことの方が、よほど大切なことなんだ。ご飯と一緒だよね。何より、自分が食べておいしいものをさささっと作ること。それから、それを人にもふるまうこと。

 昨晩、ベッドの下にしまってある折りたたみの木の机を出して、まっさらな天板の上に紙を出して、3時間ぐらい、文章を書いたり、絵を描いたりして過ごした。そのひっそりとした時間が、まるで中学生の頃に、学校から帰ってきてから部屋にこもって一人で漫画を描いていた時みたいで、懐かしく、あたたかな気分になった。外国語の勉強もしようと思って、引き出しにしまってあった、昔買ったSONYのかっこいいICレコーダーを出して、文章を音読して吹き込んだ。その音声を自分で聞いてみると、ただCDの音を聞くよりも数倍生き生きして聞こえて、自分の声なのに、まるで誰か、親しい人が僕のために文章を読んでくれたような気分だった。言葉を勉強するのに必要なのはこういう気持ちだ。誰かが自分のために何かを言ってくれている、と感じること。CDに吹き込まれている文章は、それはそれで模範の教材として価値はあるけど、語学の楽しい部分のひとつとして、自分に向かって発せられた個人的な言葉を味わう瞬間がある。自分で吹き込んだ声を聞くという行為は、これを、演劇みたいに自分で作り出して体験することだ。自分で、自分に向かって話しかけてあげる、ということなのである。そう思うと、ここでこうして文章を書いていることも、自分に向かって話しかけている、ということなのかもしれない。noteで書いているときには、どうも大通りで声を上げて話しているような気分だ。大道芸みたいで、評価されなきゃ、気に入られなきゃ、みたいな焦りがちらつく。こちらで書いている分には、昨夜机に向かって黙って漫画を描いていたときのごとく、自分に向かって話しかけてあげている気分になれる。エクスキューズがいらない表現の場所ということか。人には、自分で自分をいたわってあげる場所が必要なんだ。

 そういえば、先日歩いていてふとメモしたことで、「想像に支配されないための創作」と書いていた。生きていると、とにかく想像がどんどん膨らんでしまって、時々それに潰されそうになることがある。創作するということ、何か形にして出すということは、その永遠に注いでくる流水のような大量の扱いきれない想像を前に、せっせと筋を作って、流してあげることだ。それがいたわる、ということでもある。■

2022年1月28日

インターネットに転がっている情報は、99%がスカだ、と思った方が都合がいいと思う。実際にはそうじゃないかもしれないけど。そして、スカでいい。それで全く構わないんだが、問題はスカである部分を、間違えて日常の中でたくさん受け取って、それこそが世界なんだと勘違いしてしまうことである。人々のくだらない遊びを、真剣勝負な日常に変換してはいけないのだ。いけないんだけど、それこそが今みんなやっていることだろうと思う。ただレジスタンスであれ。そしてこんなふうに僕がここで書いている文章も、ただ熱があるだけで、意味なんてない。それでいいんだ。それでいいんだが、くれぐれも意味なんか読みとっちゃいけないぞ。意味じゃないんだ。熱なんだ。大事なのは。■

2022年1月27日

本にするための文章を、再び、書き始めた。ジャグリングで出会ってきたことについて伝えるための本である。ずっと、やりたいやりたいと思っていたのに、取りかかれずにいた。いいものを作る自信がなかったからだと思う。もっと正確に言うと、いいものが作れるまで自分と向き合う度胸がなかったからだと思う。それで、ああだこうだ言うのである。やれ、やる気がないのに作ったものにいいものなんてないだとか、今だ、というタイミングというものがあるだとか。やらないでいる理由を語るのがどんどん上手くなって、それでもって、ゆるいのもまたいいのだ、みたいなことを言い出す。僕はそんな自分を心底、卑怯者だと思う。そういう自分に腹が立つ、ということと、日々いいことが全然なくて、やるせない気分を、全て、ストーブにくべてやる薪みたいにして、ばっかばっかと燃やしてやる。今、ほんの少し火種が立っていて、行ける気がする。「火種があるうちにやらないといけないこと」が世の中にはあるのだ。燃やすしかない、という気分の時は、それをそのまま、静かな形で、誰にも気づかれないように、燃やさなければならない時があるのだ。ふてくされて、人に助けなんか求めるよりも前に、ぶっ壊すべき課題があるのだ。ただただ納得できるまでやりこんで、それを全力で世の中に、ぶん回して、ぶん回して、放り投げて。最後は笑顔で、……さよならしよッ! という時があるのだ。■

2021年8月18日

ジャグリングのことについて、まとまって知識を得られる場所/書籍がほぼない、というのは損失であるような気もする。いちいちみんながゼロから出発しなければならないから。それが悪であるとまでは思わないが。かつてPONTEが「知の集積所」のようでありたいと(一応)思って活動していたこともあった。しかしそれを実現するにはまだまだ力及ばずであった。人知を集める、ということがあまり得意ではない。しかし、30歳を手前にした今、もういちどそういう目標を頭の片隅に置こうか、とも思っている。■

2021年8月9日

渋谷PARCOでやっていた「LIFE はしもとみお彫刻展」を最終日、ギリギリ滑り込みで見る。しばし放心状態。あまり細かく言葉にしすぎない方がいいかもしれない。昨日も言った通り、黙して自分のことをする。一番のエッセンスとして受け取ったのは、自分を絶えず鼓舞していける環境を作るということである。■

2021年8月8日

あまり時間をかけられず。だが文章を書くことに久々に真剣に向き合っている感じ、する。エッセイを手直し。黙して自分のことをする。自分の中で多くを抱えること。それを力にして、大好きな人たちと、なるべく多くの楽しさを共有すること。■

2021年8月7日

イラストアイコンを追加。かなり視認性が上がった。元々PONTEくんを使ったナビゲーションアイコンは、PONTEのサイトが始まった頃から使っていた。あらためて、シンプルな要素だけで作り直す。A4用紙にさっと描いて、それをiPadのメモ機能でスキャンして、Macで仕上げた。ものの15分ほどで終了。昔はAdobeのソフトを使っていたが、僕には無用の長物だった。今更ながら思う。お金のかからないやり方でなんとかする方が圧倒的にオモシロい。このページのバナーも、pagesで書いてそれをスクリーンショットしただけ。僕の用途にはこれで充分。アイコンをつけただけで、Webサイトがぐっとよく見えてくる。愛着はなにより大事だ。たとえそれがビジネスであっても。愛着のわく方へ、が生き方の最良の選択ってもんだ。記事の体裁を整える作業も続行。一気にやると疲れるので少しずつ。こんなこと書いていたのか、ああ、恥ずかしい、ということがたくさんある。それも、たった数年前。でも、もう書いてしまったものは、なしにはできない。メゲずにどんどん新しいことをして、あらたに、多くの人を面白がらせるしかない。加藤典洋『小さな天体』を読んでいる。大学時代は素直に受け取れなかった加藤さんの姿の一部に、彼の死後になって影響を受けている。僕が残したいのもこういうものだ。自分の存在なんて、ちっぽけなものである。でも「作品」という形になることで、それが流れていく。「誰が自分の影響を受けているか」なんて、生きている間にはほんの一部しかわからない。「シェア」なんて指標に騙されない。自分が死んだあとに、誰かがそれに触れて別の遺伝子に変換する、ということを考えている。そこに人間としての自分は、いない。■

2021年8月6日

昼の12時を回っている。バイクで近所のドトールコーヒーに来た。昨日から、早くこのコーナーを書きたくて仕方がなかった。新しいことを始める時というのはいつでもそう。はじめの三日間はとても楽しい。しかしそこから先、何年間も同じことを続けられるかどうかは「事務の在り方である」ということは坂口恭平氏から学んだ。時間を決めてその中で行う、というのはその中でも有効なやり方。自分の気持ちとは関係のないゴールを設定する、ということだからだ。坂口さんの著作や文章はいくつか読んできた。すべてを総合して「貯作業したいことがあれば、毎日必ず始まって必ず終わる日課にせよ」という風に変換してお守りにしている。15分間のタイマーをセットして、Macの横に置いて、その中でこの文章を書き上げる。さて、今日もサイト、黙々と改良していく。週刊PONTE(メールマガジン)のページの方も工夫して、本家PONTEサイトとシームレスに繋がるようにしたい。というか、迷わないような構造にしたい。昨日大吾さんに見せた時、サイトの行き来にちょっと手間取っていた。テキストだらけのWebサイト、ということで真っ先に頭に浮かぶのが内田樹氏だったので、「内田樹の研究室」をのぞいて、これを手本にする。内田さんはまだデビューする前、書きに書いたテキストデータだけで、数GBになった、とかなんとか、確かどこかの本で書いていた気がする(全然違ったかも)。いずれにしても、先にテキストがあって、それを収納していく、というのが一番いい。一過性の熱狂や「シェア」から遠く離れて、書斎で静かにものを書き溜めていく。■

2021年8月5日

2021年、オリンピック真っ最中だ。PONTEという名前で2014年に雑誌を立ち上げた。ただ「やめなかった」という理由でこの「PONTE」というメディアは続いてきたが、今一度見直すことにした。7月に入ってから、Webサイトの編集に着手。編集をしながら、僕の頭にはいろんなことが去来する。それをどうにも押さえつけておけない。とりあえずWebサイトを編集していく過程を日記にしていくことを思いついた。古風なテキスト形式で、「PONTEを編集する日々」を積み重ねていく。いや、ここで書くようなことは、本当だったら、Webサイトのあり方で表わすのが一番かっこいい。だがそれ以上に、思考が溢れてきてしまうのだから仕方がない。とりあえずそのアウトレット(はけぐち)として、ここを使う。今年のPONTE改修の一番の目的は、「文章を、読みやすい形で、網羅的に掲載する」こと。僕はこの7、8年間で、それなりの数の文章を書いてきた。だがそれらは散逸している。そして紙雑誌を休止した今、広く自分の文章を読んでもらう場所としては、このPONTEのWebサイトがメインとなっている。となれば、この場所をもっと住み心地のいいところにしたい。本当は完璧な形にしてから一挙公開したかった。しかしそれだといつまで経っても公開できそうにない。なので、一旦公開する。下書きには、たくさんのマテリアルが控えている。準備が整い次第、それを「公開」にスイッチングしていく。一度にたくさん作業をして公開し、あとは放置、という状態にもしたくない。以降も日課として、少しずつ変更を加えていく。新しい文章もどんどん載せていく。そのモチベーションを維持するための日記でもある。僕は、自分が中学三年生の頃に一生懸命作っていた自作のホームページにこそ「自分の考えをインターネット上で表現する」楽しさの原型を見ている。ジャグリングを始めたての、あの15歳の頃の熱が、体験として一番優れていた。誰が見てくれるか、なんてそんなに気にしていなかった。ただ自分の考えが、広いところに投げ出されているのが面白かった。PONTEは、TwitterやInstagramやFacebookを使っていて感じる違和感から解放されるための活動でもある。「自分の時間が蓄積されている」と感じるための活動である。こんなふうに独白調の文章を書いているのは、ただ「文章を書く」という行為に没頭し、それを公開して、見たい人だけがそれを見ている、という状況に自分を置きたいからである。実を言うとこれは、紙雑誌を作っていた頃の志でもあるのだ。■