編集長の書斎

2023年5月19日

 家を出ようと思って、じゃあ行ってくるからね、と猫をからかって遊んでいたら、急に気だるくなってきた。ベッドに横たわってInstagramを見始めた。ウェブや広告、名刺のデザインのノウハウを無料で公開している動画が流れてきた。静かな部屋なら大きな声を出さなくても聞こえますよね、それと一緒です、余白をとって、その中なら小さい字でもよく見えるでしょ。内側に行くほど余白は小さくするんです。オフィスと一緒、社長と秘書がこんな離れてたらやりづらくてしゃあないでしょ、関係のあるものを近くに寄せるんです。ここは2ptの線でボタン作ってるけど、それと合わすために全体のまで2ptなったら枠が勝ってしまうから、ドロップシャドウがええですね、しかも、黒やなくてちょっとだけ背景の色持ってきて、その色を暗く落としたやつで影を作るんです。別の色を持ってくる時は、彩度は合わせたまんまで、色相だけ変えるんです。などなど。実に論理的で理由がはっきりしていて、しかもその指摘通りやると、確かに綺麗に仕上がる。こういう知識を一つ一つ身体化しようと思ったら、そりゃあ、5年、10年とかかるよなぁ、と思った。でもこれはどんな分野でも一緒で、何かホンキでモノにしようと思ったら、こういうふうに、ちゃんと精密に、10年かけないとしょうがないよなぁ。

 なんでもチャチャッとやっちゃえるのがいい、と思っている。やりたいと思ったことを、2、3回試したら理想の形通りにできたらいい、と思って気分で物事を進めている。でもこれは、まともなプロと正面から対峙して接することがないから、こんなふうに思うんだろうな。いかんいかん。

2023年5月10日

noteで文章を書く習慣としての連載を続けていたけど、PONTEに戻ることにした。noteやTwitterは所詮人付き合いで、楽しいものでもあると同時に、自分が孤独になる時間を奪っていると思った。そしてこういう根本的な違和感は、すぐに具体的な方法で解決した方がいい。というわけで、でも文章はまだ公開された状態で緊張感を持って書きたいから、もう少しスローな、シェアしづらい媒体で文章を書くことにした。つまり、この独自ドメインで、自分で運営している、PONTEの、しかもちょっと奥の方のこのコーナーだ。「編集長の書斎」である。Webサービスだって道具である。必要なときに必要な道具を見極めて使うようでないと、具合が良くない。使われるんでなく、自分で適切に使い分ける。広く知ってほしいことと、自分が密かに積み上げたいことを一緒くたにしちゃいけない。広告が入ったり、他人の書いた文章がひっきりなしに入ってくる環境で、競うように何かを書いて、それが水泡のように消えていくより、こっちでじっと推敲している方が楽しい。僕は今、孤独な時間を、独自に積み上げていくことを欲していて、それは、これまで十全に遂行できていなかったことである。これまでよりもっと面白いところに、自分の脚で行きたい、と思っている。より具体的に言うと、「自分が読んで面白いものを書きたい」とか「自分で見て満足する絵を描きたい」とか「自分で読んで笑ってしまうような漫画を描きたい」ということだ。が、今まで、自分が楽しむためのものは、自分で作れる、という事実すら忘れてしまっていたんだ。「人を喜ばせる」という視点ばかりが先行していた。人を喜ばせるにしたって、自分で作ったものは、まず自分で味わうことの方が、よほど大切なことなんだ。ご飯と一緒だよね。何より、自分が食べておいしいものをさささっと作ること。それから、それを人にもふるまうこと。

 昨晩、ベッドの下にしまってある折りたたみの木の机を出して、まっさらな天板の上に紙を出して、3時間ぐらい、文章を書いたり、絵を描いたりして過ごした。そのひっそりとした時間が、まるで中学生の頃に、学校から帰ってきてから部屋にこもって一人で漫画を描いていた時みたいで、懐かしく、あたたかな気分になった。外国語の勉強もしようと思って、引き出しにしまってあった、昔買ったSONYのかっこいいICレコーダーを出して、文章を音読して吹き込んだ。その音声を自分で聞いてみると、ただCDの音を聞くよりも数倍生き生きして聞こえて、自分の声なのに、まるで誰か、親しい人が僕のために文章を読んでくれたような気分だった。言葉を勉強するのに必要なのはこういう気持ちだ。誰かが自分のために何かを言ってくれている、と感じること。CDに吹き込まれている文章は、それはそれで模範の教材として価値はあるけど、語学の楽しい部分のひとつとして、自分に向かって発せられた個人的な言葉を味わう瞬間がある。自分で吹き込んだ声を聞くという行為は、これを、演劇みたいに自分で作り出して体験することだ。自分で、自分に向かって話しかけてあげる、ということなのである。そう思うと、ここでこうして文章を書いていることも、自分に向かって話しかけている、ということなのかもしれない。noteで書いているときには、どうも大通りで声を上げて話しているような気分だ。大道芸みたいで、評価されなきゃ、気に入られなきゃ、みたいな焦りがちらつく。こちらで書いている分には、昨夜机に向かって黙って漫画を描いていたときのごとく、自分に向かって話しかけてあげている気分になれる。エクスキューズがいらない表現の場所ということか。人には、自分で自分をいたわってあげる場所が必要なんだ。

 そういえば、先日歩いていてふとメモしたことで、「想像に支配されないための創作」と書いていた。生きていると、とにかく想像がどんどん膨らんでしまって、時々それに潰されそうになることがある。創作するということ、何か形にして出すということは、その永遠に注いでくる流水のような大量の扱いきれない想像を前に、せっせと筋を作って、流してあげることだ。それがいたわる、ということでもある。■

2022年1月28日

インターネットに転がっている情報は、99%がスカだ、と思った方が都合がいいと思う。実際にはそうじゃないかもしれないけど。そして、スカでいい。それで全く構わないんだが、問題はスカである部分を、間違えて日常の中でたくさん受け取って、それこそが世界なんだと勘違いしてしまうことである。人々のくだらない遊びを、真剣勝負な日常に変換してはいけないのだ。いけないんだけど、それこそが今みんなやっていることだろうと思う。ただレジスタンスであれ。そしてこんなふうに僕がここで書いている文章も、ただ熱があるだけで、意味なんてない。それでいいんだ。それでいいんだが、くれぐれも意味なんか読みとっちゃいけないぞ。意味じゃないんだ。熱なんだ。大事なのは。■

2022年1月27日

本にするための文章を、再び、書き始めた。ジャグリングで出会ってきたことについて伝えるための本である。ずっと、やりたいやりたいと思っていたのに、取りかかれずにいた。いいものを作る自信がなかったからだと思う。もっと正確に言うと、いいものが作れるまで自分と向き合う度胸がなかったからだと思う。それで、ああだこうだ言うのである。やれ、やる気がないのに作ったものにいいものなんてないだとか、今だ、というタイミングというものがあるだとか。やらないでいる理由を語るのがどんどん上手くなって、それでもって、ゆるいのもまたいいのだ、みたいなことを言い出す。僕はそんな自分を心底、卑怯者だと思う。そういう自分に腹が立つ、ということと、日々いいことが全然なくて、やるせない気分を、全て、ストーブにくべてやる薪みたいにして、ばっかばっかと燃やしてやる。今、ほんの少し火種が立っていて、行ける気がする。「火種があるうちにやらないといけないこと」が世の中にはあるのだ。燃やすしかない、という気分の時は、それをそのまま、静かな形で、誰にも気づかれないように、燃やさなければならない時があるのだ。ふてくされて、人に助けなんか求めるよりも前に、ぶっ壊すべき課題があるのだ。ただただ納得できるまでやりこんで、それを全力で世の中に、ぶん回して、ぶん回して、放り投げて。最後は笑顔で、……さよならしよッ! という時があるのだ。■

2021年8月18日

ジャグリングのことについて、まとまって知識を得られる場所/書籍がほぼない、というのは損失であるような気もする。いちいちみんながゼロから出発しなければならないから。それが悪であるとまでは思わないが。かつてPONTEが「知の集積所」のようでありたいと(一応)思って活動していたこともあった。しかしそれを実現するにはまだまだ力及ばずであった。人知を集める、ということがあまり得意ではない。しかし、30歳を手前にした今、もういちどそういう目標を頭の片隅に置こうか、とも思っている。■

2021年8月9日

渋谷PARCOでやっていた「LIFE はしもとみお彫刻展」を最終日、ギリギリ滑り込みで見る。しばし放心状態。あまり細かく言葉にしすぎない方がいいかもしれない。昨日も言った通り、黙して自分のことをする。一番のエッセンスとして受け取ったのは、自分を絶えず鼓舞していける環境を作るということである。■

2021年8月8日

あまり時間をかけられず。だが文章を書くことに久々に真剣に向き合っている感じ、する。エッセイを手直し。黙して自分のことをする。自分の中で多くを抱えること。それを力にして、大好きな人たちと、なるべく多くの楽しさを共有すること。■

2021年8月7日

イラストアイコンを追加。かなり視認性が上がった。元々PONTEくんを使ったナビゲーションアイコンは、PONTEのサイトが始まった頃から使っていた。あらためて、シンプルな要素だけで作り直す。A4用紙にさっと描いて、それをiPadのメモ機能でスキャンして、Macで仕上げた。ものの15分ほどで終了。昔はAdobeのソフトを使っていたが、僕には無用の長物だった。今更ながら思う。お金のかからないやり方でなんとかする方が圧倒的にオモシロい。このページのバナーも、pagesで書いてそれをスクリーンショットしただけ。僕の用途にはこれで充分。アイコンをつけただけで、Webサイトがぐっとよく見えてくる。愛着はなにより大事だ。たとえそれがビジネスであっても。愛着のわく方へ、が生き方の最良の選択ってもんだ。記事の体裁を整える作業も続行。一気にやると疲れるので少しずつ。こんなこと書いていたのか、ああ、恥ずかしい、ということがたくさんある。それも、たった数年前。でも、もう書いてしまったものは、なしにはできない。メゲずにどんどん新しいことをして、あらたに、多くの人を面白がらせるしかない。加藤典洋『小さな天体』を読んでいる。大学時代は素直に受け取れなかった加藤さんの姿の一部に、彼の死後になって影響を受けている。僕が残したいのもこういうものだ。自分の存在なんて、ちっぽけなものである。でも「作品」という形になることで、それが流れていく。「誰が自分の影響を受けているか」なんて、生きている間にはほんの一部しかわからない。「シェア」なんて指標に騙されない。自分が死んだあとに、誰かがそれに触れて別の遺伝子に変換する、ということを考えている。そこに人間としての自分は、いない。■

2021年8月6日

昼の12時を回っている。バイクで近所のドトールコーヒーに来た。昨日から、早くこのコーナーを書きたくて仕方がなかった。新しいことを始める時というのはいつでもそう。はじめの三日間はとても楽しい。しかしそこから先、何年間も同じことを続けられるかどうかは「事務の在り方である」ということは坂口恭平氏から学んだ。時間を決めてその中で行う、というのはその中でも有効なやり方。自分の気持ちとは関係のないゴールを設定する、ということだからだ。坂口さんの著作や文章はいくつか読んできた。すべてを総合して「貯作業したいことがあれば、毎日必ず始まって必ず終わる日課にせよ」という風に変換してお守りにしている。15分間のタイマーをセットして、Macの横に置いて、その中でこの文章を書き上げる。さて、今日もサイト、黙々と改良していく。週刊PONTE(メールマガジン)のページの方も工夫して、本家PONTEサイトとシームレスに繋がるようにしたい。というか、迷わないような構造にしたい。昨日大吾さんに見せた時、サイトの行き来にちょっと手間取っていた。テキストだらけのWebサイト、ということで真っ先に頭に浮かぶのが内田樹氏だったので、「内田樹の研究室」をのぞいて、これを手本にする。内田さんはまだデビューする前、書きに書いたテキストデータだけで、数GBになった、とかなんとか、確かどこかの本で書いていた気がする(全然違ったかも)。いずれにしても、先にテキストがあって、それを収納していく、というのが一番いい。一過性の熱狂や「シェア」から遠く離れて、書斎で静かにものを書き溜めていく。■

2021年8月5日

2021年、オリンピック真っ最中だ。PONTEという名前で2014年に雑誌を立ち上げた。ただ「やめなかった」という理由でこの「PONTE」というメディアは続いてきたが、今一度見直すことにした。7月に入ってから、Webサイトの編集に着手。編集をしながら、僕の頭にはいろんなことが去来する。それをどうにも押さえつけておけない。とりあえずWebサイトを編集していく過程を日記にしていくことを思いついた。古風なテキスト形式で、「PONTEを編集する日々」を積み重ねていく。いや、ここで書くようなことは、本当だったら、Webサイトのあり方で表わすのが一番かっこいい。だがそれ以上に、思考が溢れてきてしまうのだから仕方がない。とりあえずそのアウトレット(はけぐち)として、ここを使う。今年のPONTE改修の一番の目的は、「文章を、読みやすい形で、網羅的に掲載する」こと。僕はこの7、8年間で、それなりの数の文章を書いてきた。だがそれらは散逸している。そして紙雑誌を休止した今、広く自分の文章を読んでもらう場所としては、このPONTEのWebサイトがメインとなっている。となれば、この場所をもっと住み心地のいいところにしたい。本当は完璧な形にしてから一挙公開したかった。しかしそれだといつまで経っても公開できそうにない。なので、一旦公開する。下書きには、たくさんのマテリアルが控えている。準備が整い次第、それを「公開」にスイッチングしていく。一度にたくさん作業をして公開し、あとは放置、という状態にもしたくない。以降も日課として、少しずつ変更を加えていく。新しい文章もどんどん載せていく。そのモチベーションを維持するための日記でもある。僕は、自分が中学三年生の頃に一生懸命作っていた自作のホームページにこそ「自分の考えをインターネット上で表現する」楽しさの原型を見ている。ジャグリングを始めたての、あの15歳の頃の熱が、体験として一番優れていた。誰が見てくれるか、なんてそんなに気にしていなかった。ただ自分の考えが、広いところに投げ出されているのが面白かった。PONTEは、TwitterやInstagramやFacebookを使っていて感じる違和感から解放されるための活動でもある。「自分の時間が蓄積されている」と感じるための活動である。こんなふうに独白調の文章を書いているのは、ただ「文章を書く」という行為に没頭し、それを公開して、見たい人だけがそれを見ている、という状況に自分を置きたいからである。実を言うとこれは、紙雑誌を作っていた頃の志でもあるのだ。■