週刊PONTE vol.181 2022/05/03

=== PONTE Weekly ==========
週刊PONTE vol.181 2022/05/03
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PONTEは、ジャグリングについて考えるための居場所です。
週刊PONTEでは、人とジャグリングとのかかわりを読むことができます。
毎週月曜日、jugglingponte.comが発行しています。
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◆Contents◆

・青木直哉/板津大吾…投げないふたり Season2 第14回「それいけ! アンシンカン」(最終話)

・青木直哉…ジャグリングで書くこと 第1回 ジャグリングはめでたい

・寄稿募集のお知らせ

・編集後記

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◆投げないふたり season2◆
話し手・板津大吾(PM Juggling)& 青木直哉

第14回「それいけ! アンシンカン」(最終話)

板津大吾(以下D)
EJCのプレゼンテーションを見てたらさ、来年のアイルランド、行きたくなってきちゃったよ。

青木直哉(以下N)
あれ、もう決まってましたっけ。あ、本当だ。

D
(会場のプレゼンテーション映像の画面を見せながら)なんか、この色合いがいいよね。青いスタジオみたいなところで、緑の芝生、白い羊。

N
そこですか(笑)! でも、行きたいですよね。

D
今年はまだ心配事もあるけど、来年ぐらいならちょうど良さそう。

N
今EJCに行ったら以前とは全然違う感覚だろうな。もう確信がありますね。

D
あ、そう?

N
うん。自分にとってジャグリングがどういうものか、この二年間濃密に向き合ったから。ジャグラーとして熱を持って、っていうより、もう少し広い視野で、人としてEJCに行けるな、って今は思う。自分の在り方に安心してるから。無理に他人と競う感じが全然ない。

D
おおー、なんかいいね。ジャグラーたちがそれぞれ会えない間に、内面からも変化して、また時を経て会える、っていうのは感慨深いね。

N
本当にね。コロナの前までは、僕はちょっと走りすぎていたと思う。細い橋を渡ってて、一歩踏み出すそばから、後ろが崩れていくんですよ。だからもう前に走るしかない、みたいな、そういう感じでジャグリングと向き合ってた。勢いで海外に出かけたりなんだりも、そういうことだった。楽しかったけど。

D
スーパーマリオの、落ちる床みたいな感じね(笑)。わーって。

N
そうそう、あの、ちくわみたいな形した(笑)。でも今僕は、一旦陸地に降りた感じ。海外にも行けなくなっちゃったし、友達もぱったり来なくなったし。ジャグリングのことをよく考えた、っていう意味でもそう。あとは、生活の基盤をしっかり整えられた。Uber Eatsやって、お金はお金で稼いで、自分の書きたいことは書きたいことでいっぱい書いて、って生活の土台がある。よし、じゃあ次は冒険しよう、って、そういう順序ができてる。

D
でも、安心感っていいよね。経済的な安心感、家がある安心感、友達がいる安心感、色々あるけど。自分は、最近FLIKCUBEの大量生産をしていて、それが安心感を生み出してた。

N
へえ。どんなところが?

D
まず、ある程度作るべき量があるっていうところ。あとは、一度作ったことがあるものだ、っていうこと。でも、作る作業は、ロシアンボールみたいに中身を入れるだけじゃなくて、もう少し負荷がある。その中で、技術的に上達することもある。だからなんか、その辺のバランスがちょうど良くて、作業すること自体が、自信というか、安心感を生み出してた。

N
なるほどねー。僕がnoteで書いてる毎日の連載は、ほどよい負荷で毎日作品を発表してるから、やっぱり安心感を生み出してます。

D
あれも、いい感じだよね。

N
あれねぇ、いいんですよ(笑)。自分が言いたいことって、山ほどある。でも、それを、一発でバシッと出さなきゃいけない、ってなると、どうも僕は考えすぎちゃって、全然楽しい発表ができないんです。こんだけ時間かけるんだから、いいもの出さなきゃ、とか、考えを全部入れなきゃ、みたいに思っちゃって重くなる。シンプルじゃなくなる。だからもう普段から、自分で勝手に言いたいことを真剣に開放して、どんどん言ってる場所が常にあればいいんじゃん、って思って。そうすると、そっちで、いろんな雑音込みの普段の姿が出せる。でも、いざ広く公開する作品を、ってなった時には、そっちはシンプルに削ぎ落とせます。余計な欲がないから。結果、いいものになる。

D
いやー、なるほどな。なんかあの連載、絵を描いている様子を見てるみたいだ、って思ってね。ライブドローイング。間違えた線とかもそのまま、なんとか作品に織り交ぜていく、っていうか、思考のプロセスが全部入ってるっていうか。それで、その軌跡が形になってる、っていうこともまた一つの安心感だよね。

N
その例え、本当に嬉しいなぁ。そうですね。作品として毎日何かしら形になっているっていうのは、とても大きな安心材料です。もうだから、noteの方は、ラジオみたいにガーガー、常に響かせてやろうと思っています。そして、より整備された作品は、それはそれで別に取り組みます。全部やります。

D
先週の週刊PONTEから、なおくんの長文が載ったじゃない(笑)。あれもいいよ。「ジャグリングについて書くのを恐れている」っていうタイトルで、まずひきつけられた。文章も、共感どころがいっぱいあって。思わず読みながら自分を投影したよ。「自由にジャグリングについて、心に浮かぶ通りにいっぱい書く」とかもさ。まさに自分が道具作りでやりたいことだ、ってね。なんかでも、PONTEってもともと、そういう雑音混じりの、素の自分をじゃんじゃん発表するのが一番合っている場だったんだね、結局。

N
そうなんですよね。そうそう。

D
ジャグリングの世界にもっと大きな権威のあるメディアがすでにあったりしたら、変に期待をもたれなかったんだろうけど(笑)。そもそもジャグリングのメディアなんて存在しないところに出ていったから、どうしても完成されたものを出さなきゃ、みたいな感じになっちゃったかもしれないね。

N
そう(笑)。まぁでも、今から、ますますPONTEらしいことをまた新たに始められるので、楽しくなってきていて、それで十分です。大事なことは、自分の楽しさにとことん向き合うってことです。それ以外ない、って言ってもいい。でも結果、それはやっぱり、海に流した手紙みたいに、思わぬところで拾われて、広がっていくんだと思う。『投げないふたり』の単行本だって、ものすごく個人的なことしか書いてないと思うんですよ。でも、蓋を開けてみたら、ジャグリングをしない人まで読んでくれて、しかもかなり好意的に受け止められています。閉じれば閉じるほど、実はみんな振り返ってくれるんだ、って痛感しましたよ。

D
おっ。出た。ちょっとメモろう、それ。

N
ふふふ(笑)。……ま、そんなわけで。今回のシーズン2も、そろそろまとめて、本にしてやろうかなと思ってます。

D
そうかー、今は……14回目? 第1回は、去年の11月か。でも、まだ対談企画自体が始まってからすら、1年も経ってない(2021年6月に開始)んだね。あっという間だなぁ。

N
うん、いいペースですよね。気持ちがいいです。まぁ、これからも、とにかく何かを続けて、作品にしていきましょう。これもまた、僕たちの安心材料ですからね。

(「投げないふたり」Season2 完)

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◆ジャグリングで書くこと◆

第1回 ジャグリングはめでたい

ジャグリングについて自由に書く連載の始まりです。でも早速、何について書いたらいいのかわかりません。困りました。
こういう時は、頭に浮かぶことを何も考えずに書きます。
いま、「ジャグリングは祝祭的である」という表現が急に湧いてきました。これについて書いてみます。「祝祭的である」というのがどういうことなのか、明瞭な説明はできないかもしれません。ただ以下に書くのは、その表現から派生した考えです。だから、どこかでつながっていくだろうと思います。

昨日僕は、引っ越しをしました。家具もあらかた運び終わり、手伝いをしてくれた友人たちとビールを飲みながら、新しい部屋の中で談笑していました。すると僕は、急にジャグリングがしたくなってきました。そこでいきなり収納ボックスの中から道具を取り出し、ジャグリングをし始めました。五つのボールをポスポスポスと投げたのです。「新しい部屋に引っ越してきたのが嬉しすぎてジャグリングをした」という感じでした。
部屋は、天井の半分が高い作りになっています。四m以上はあるでしょう。だからその高さを味わいたかった、ということもあります。何かの質感に似ていました。なんでしょうか。
改めて省察してみると、それは「草原ででんぐり返しをしたくなるときの気持ち」に近かったのではないか、と思います。引っ越しをしたばかりで、まだ物も少ない、空間の多いスペースでジャグリングをしたくなる気持ち。草っ原で「フォー!」とか言いながら、でんぐり返しをしてみたり、ゴロンゴロンと寝転がりたくなる気持ち。その両者には、共通点がある。そんな感じがします。
もう少し考えを進めてみましょう。
ジャグリングも、でんぐり返しも、「潤沢な空間がそこにある」ことを感じる手段になります。その動作によって、「邪魔するものが一切ない」ことを、身体全体で感じることができる。開放的な動作が許される場所である、ということを直感できます。
新居で僕が5ボールをしたときに感じたのは、その開放感です。
そこに自由な空間がある、ということを身体で感じるのは、なんだか「めでたい」ことである感じがしました。なんでしょうね。これもはっきりとは説明できません。でも、何か「ハレ」の感覚をもたらしました。
さて、以上の説明は、主体的に自分が感じる感覚についてですが、それだけではなくて、他人のジャグリングを見る、客観的なジャグリング体験にも、同じような言及が適用できるんじゃないか、という気がします。
ディアボロのハイトスを見るときに、それが清々しい感じを思い出してみてください。なぜ気持ちがいいのでしょうか。それは、そのジャグラーの上の空にはたしかに空間がある、ということを鮮やかに認識するからではないでしょうか。ハイトスをして、たとえ演者がキャッチに失敗しても、清々しさ自体は残ります。空高く上がったディアボロを見た時点で、観客は「おおー!」と喜びます。
ここには何かしらのヒントがある気がします。
換言すると、「ある程度の高さに、自分の意志が自在に及ぶ空間があると知ること」かもしれません。別の例えを出してみましょう。
以前公園で、数人の友達とジャグリングをした時がありました。その時に、全長五mぐらいの木の枝が地面に落ちていました。枝、という表現も正しいのかわからないくらい、巨大な、木の一部です。それを拾って、顎でバランスを取りました。
それはそれは、見応えがありました。
技術的には大したことをしていません。バランスを取る動作自体は、対象物が大きい場合に、必ずしも難易度が上がるわけではありません。むしろ簡単でした。
しかしその木の枝のバランス芸だって、その人の上に使える空間が潤沢にあることを示していました。その潤沢な空間の中には、自分の身体、または身体の一部(この場合、木の枝)が余裕を持って存在することができる、ということを表していました。
空間の広さを、自分にも、他人に向かっても、実感として示すことができるツール。ジャグリングは、そういうものになれると考えられます。
もちろん、ジャグリングの役割はそれだけではありません。いろいろな側面があります。生活者としての身体からは想像もつかないような、非日常的な「技巧」を見せる手段、でもあります。コンタクトジャグリングのアイソレーションなんかは、視覚的な快楽を提供するものでもあります。あくまで僕が今説明しているのは、ジャグリングが果たしうる役割の一部、ということです。さて、では以上のような役割を果たすジャグリングが、「なぜ」祝祭的であるのか。
なぜでしょうね。
でも、今僕の頭の中には、たとえば大きな国旗だとか、夏まつりの提灯だとか、花火だとか、バースデーパーティの装飾だとか、「通常では考えられない大きさと高さに、人間の意志がコントロールする物体が存在する」という状況が思い浮かんでいます。そういうものと、ジャグリングを見るときの感覚は似ていると僕は思います。「ジャグリングとお祭りは似ているんじゃないか」と思うわけです。
どうでしょう。
日常ではあり得ない高さに物が飛ぶ、というのは気持ちがいいんですね。高さに祝祭性があるんじゃないか、そういう話だったのですね。僕も今わかりました。高さには、祝祭性がある。

でも、もう一度考え直してみると、高さ以外にもジャグリングにはおめでたい感じがあるんじゃないか、と思えてきました。そういえば、染之助・染太郎さんたちは、傘回しをしながら「おめでとうございまぁーす!」と言っていました。あれだって、芸のどこかに祝祭性があるということじゃないでしょうか。「嬉しくてついジャグリングをしたくなっちゃう」という感覚は、高さだけに起因するのではない、という感じがしてきました。
僕は今、この「ジャグリングはめでたい」という感覚が、もっと広く、たくさんの話題につながっている感じがしています。
ビッグトスアップをご存知でしょうか。ジャグリングのフェスティバルでは、締めによく行われるイベントです。何をするかというと、ただただ、自分の道具を持ち寄って、それを掛け声で一斉に全力で空中に投げ上げて、それがぼたぼたぼた、と落ちてくるのをみんなできゃあきゃあ言いながら避ける、というものです。これなんか、まぁこれ自体はジャグリングではないですが、典型的に「めでたさ」を求めているだけの行為な気がします。
ここには、「リスク」が存在しています。恐怖を自分たちで作り出している感覚があります。そこに興奮が宿っています。絶叫マシンと同じような質感です。
一度、自分を潜在的なリスクに晒した上で、そこから帰還する、ということを体験するのは、祝祭文化の根幹をなすファクターであるような気もします。
トマトをぶん投げ合う祭りにしても、闘牛にしても、福男を決めて大勢が境内を走る行事にしても、全部そんな感じがします。危ない祭りは多いですが、それは危ないこと、つまりリスクがあることが、本来的な意味での、「祭り」の大事な要素だからでしょう。
まぁ、早い話、ギャンブルだってそうです。ギャンブルはお祭りです。そこにあるギャンブル性が、日常とは違う興奮をもたらしている。お楽しみ会でビンゴとかやるのも、それはそのギャンブル性、偶有性を体験することに意味があるんでしょう。それによって、ああ、生きているな、と感じるのかもしれません。ずっと同じ調子で日常が続いていると、生きている実感がなくなってくるから、そこに躍動感をもたらす、一旦リスクを自分で起こして、そこから助かる、ああ、よかった、という安堵の感覚、それが「祝祭」ということなのかもしれない。まぁ、花火だって、あんな大きな音を出して、光をダイナミックに出して、そういうのをみて犬は怯えたりしますし、もともと、生物にとって「危ない!」と感じるような状況を疑似的に作り出すことで、めでたい感じを演出しているのかもしれないですよね。

さて、なんとなく、祝祭とジャグリング、というものを並列に語る、入り口くらいには立ったような感じがします。アイデアを出すための刺激くらいにはなったかもしれません。もちろんですよ。「祝祭」というテーマについて書かれた論文、いや、新書だっていいです、祝祭性について分析している文章を読んだら、ここで書いたようなことは腐るほど語り尽くされているはずです。あらためて僕が言うまでもない話だろうと思います。ただ、僕にとっては、祝祭性が「ジャグリングの行為そのもの」に宿っている、という直感が、どこか新鮮だったので、それについて書いてみました。そして、これはジャグリングのどういうところが気持ちいいのか、という体験そのものの分析や、ジャグリングの歴史をひもとく際の補助線、あるいは、演技を作る際のヒントにすらもなったりするかもしれません。
ジャグリングでボールを投げる、その一投一投は、実は「ミニ祝祭」なのです。
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☆PM Jugglingのnoteを勝手に紹介☆
DIYなジャグリング道具
https://note.com/daigoitatsu/n/n11f2d87dc5a5
「自分の原点は、もとからB級品というか、DIYなジャグリング道具だったのだ。PMにあるのは、いわば、うまくいったDIY集なのだ。ちょっと見てよ! みたいな。」
(記事本文より)
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◆寄稿募集のお知らせ◆

週刊PONTEに載せる原稿を募集します。
800字以内でお書きください。
編集長による査読を経たのち掲載。
掲載の場合は、宣伝したいことがあればしていただけます。
投稿・質問は mag@jugglingponte.com まで。
締め切りは、毎週金曜日の23:59です。

◆編集後記◆ 文・青木直哉

-またもや一日遅れの刊行になってしまいました。申し訳なし。今週いっぱいで新しい家に落ち着いて、あとは平常運転でまた発行ができると思います。

-投げないふたりも一旦終了です。また本にすることができたらお知らせします。

また来週。

PONTEを読んで、なにかが言いたくなったら、mag@jugglingponte.com へ。

発行者:青木直哉 (PONTE)

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