ジェイ・ギリガンに会いに。

ニュージーランドへ

僕はその時、平日の昼に暇な人たち(おじいさん、おばさん)に囲まれて、横浜市立中央図書館の長机で、対談本を読んでいた。本には「若いうちから面白いことをしたほうがいい」という一節があった。そこで僕は、「なんか面白いことをしよう」と思い立った。

心を決めたら、すぐに図書館を出て外を歩きはじめた。足早に歩きながら、そうだ、行こうか行くまいか迷っていたニュージーランドに旅に出よう、と決心した。家に帰ったら、海外に行くことを両親に伝えた。その場でMacBookを開き、航空券のチケットを取った。出発は1週間後だった。この時はまだ、ニュージーランドという国について、何も知らない。日本から飛行機でどれくらい時間がかかるのかすらも知らない。ビザがいるのかどうかも、何も調べなかった。1週間後に本当に入国することができるのかどうかも、わからなかった。

出発の日の夜8時に、チャイナ・エアの飛行機はニュージーランドに向けて出発した。

コリンおじさん

ニュージーランドは2つの島からなる。そのうち、北にある方の島の真ん中に位置する「オークランド」が今回の目的地だ。オークランド空港では、5時間以上待機することになっていた。あらかじめ連絡をしておいたコリンおじさんに、町まで車で乗せて行ってもらうことになっている。コリンによれば、「迎えに行くのは構わないが、夜までは行けない」ということだった。だが僕の方も、別に急ぎでもなかった。なので、彼を待つことにした。コリンとは、Facebook上の掲示板で知り合っただけで、面識はなかった。

空港に着いたのは17時だ。入国までにずいぶん大仰な検疫があって、ロビーに出たのは18時過ぎだった。2万円をニュージーランドドルに両替した。受付をしてくれたのは肌の浅黒いおじさんだ。マオリ族の血を引くのかもしれない。東南アジア系なのかもしれない。初めて訪れる国で、民族構成もよく知らない。そのお金を持ってマクドナルドに行った。お腹をみたしてから、残りの時間を過ごすために、ロビーにある黒いベンチに座った。

過ぎゆく多くの風景を、黙って眺めた。おばさんが、とんでもない金切声をあげながら半狂乱で待ち人に駆け寄る。刺青だらけのお兄ちゃんが、ブロンドヘアの若い女性を、静かな微笑で迎える。日本人の卒業旅行の団体が、セルフィー棒で写真を撮る。

僕が待っていたコリンは、後ろから急に現れた。あらかじめ言ってくれていた通り、青いクラブ3本を手に持っていた。「元気か」と、ニンマリ笑いながら覆うように私の肩を抱いてきた。

コリンはずんぐりしていて、強そうな男性だった。髪の毛はほとんど剃ってある。下はベージュ色の半ズボン。上半身は、釣りで着るような、ポケットのたくさんあるジャケットを羽織っている。アゴには白い無精ヒゲが生えている。顔のシワ、手の大きさ。日本でひょろひょろと育った僕とは全く違った時間を過ごしてきたんだろう。重厚な時間の累積が、身体に表れていた。暇だし、俺たちにはコーヒーが必要だし、カフェに行こう、というので、空港の2階でコーヒーをご馳走になった。

彼は軍人として海を渡ったこともあり、70年代には日本も訪れたそうだ。ラグビーが大好きで昔はプレイもしたし、今でも観戦はよくしている、という。キウイ(ニュージーランドの人は自分たちのことをこう呼ぶ)の誇り、オールブラックスが踊るマオリ族の舞踊「ハカ」や、原住民の文化、言語についても、笑顔で語ってくれた。

ディーナ、コリンと街へ

もう一人の同乗者に、ディーナという女性がいた。ハワイ生まれだが、今はアメリカに住む50代だという。もう時計は23時過ぎを指していた。ここからまたさらに2時間ほど待つことになった。僕は合計7時間も空港のロビーにいたことになる。コリンと一緒に、マクドナルドのポテトを食べていると、ブロンドの女性が出国ロビーの中に入ってきた。コリンはニヤリとしてその人と抱き合い、積もる話を意気揚々とし始めた。これがディーナだ。それまで不完全な英語話者(僕のこと)とずっと話していたこともあって、ストレートに英語を話せるのが嬉しいようにも見える。足早に歩き始めると、車に乗って、コリンはエンジンをかけた。

もう深夜だが、交通量は多い。空港から高速道路を抜けて、オークランドの街を眼下に臨みつつ郊外の町「フアパイ」へと向かう。コリンはフアパイでピッツェリア(ピザ屋)を経営している。その店の向かいのレストランでは、フェスティバル前夜のジェイ・ギリガンによるショーも行われる。まずは初日の宿泊場所へと向かった。

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キャラバンわぁわぁ

車が大きな草原の前に着いた。中に入る道には、鉄条網で柵がしてある。農場のようだ。「あっちの方に羊の目が見えるだろう」とコリンに言われて向こうを見た。動物たちの眼がたくさんこちらを向いていた。車のヘッドライトに照らされて、眼がビカビカと光っている。なるほど、羊だ、と思っていると、コリンは車から僕たちを降ろして、大きなキャラバン(キャンピングカー)の前に連れて行った。可愛らしいキャラバンが目に入った瞬間、隣にいたディーナが、わぁわぁ、突如として大きな声で騒ぎ始めた。

日本を出発する時には、てっきりコリンの家で空き部屋を貸してもらえるのだと想像していた。だが今日は、農場にぽつんと停めてあるパステルグリーンのキャラバンの中で眠るらしい。鍵を開け、生活用に改良された車の中に入る。ディーナの興奮は頂点に達する。「オーマイグッドネス!」と30回は立て続けに言っていた。6畳ほどのキャラバンの中は赤で統一されており、ダブルサイズのベッドが一番大きな位置を占めていた。天井から吊りさげられた照明はトルコランプのような華麗な装飾が施され、控えめな光を放っている。水道が付いた簡易キッチンがある。その上にある、小さくて華奢な手編みのかごの中に、淡くキャンドルが灯されていた。ベッドの隣には洋服ダンスがあり、観音開きの戸板には立派な鏡が取り付けられていた。鏡には、真ん中から割れて線が入っていた。車の中とはいえ、かなり快適である。

「ここで寝袋を敷いて寝な」とコリンは脇の方の大きなベンチを指差した。僕が「うん」と言って寝る支度をしはじめるのを確認すると、あとは、ディーナの褒め言葉と抱擁の嵐をひたすらに笑顔で迎え、相槌を打っていた。「見てよ、これ!」といちいち目に移るものを声に出して描写するディーナ。テレビの副音声かと思うほど、360度、見えるものすべてについての説明をし、「かわいすぎる!」と言っていた。「じゃあ、明日の朝迎えに来るからな」と言って、2人は空港から数えて通算20回目のハグをして、コリンは車に乗り、去って行った。そのあとのディーナはやっぱり興奮しっぱなしで、電気を消しても「すぐ終わるからね」と言ってアメリカの彼氏に電話をかけ、そわそわそわそわ、いつまでもキャラバンを褒めていた。

僕は、星空、きれいだな、と思っていた。

会場ヘ向かう

朝起きると、外から2人の女性の元気な話し声がした。片方は間違いなくディーナだ。もう1人はわからない。しばらく目を閉じていたが、勢い良く寝袋をはねのけて外に出て、挨拶をした。

「モウニング」と言ったその女性は、ジョー。黒髪で、水色のシャツを着て、チノパンツを履いている。ディーナと同世代だろうか。とても快活だ。しかしディーナよりは穏やかで話しやすい。イギリス生まれで、わざとらしいくらい見事なブリティッシュ英語を話す(いや、そりゃそうなのだが)。ジョーは大型のバンで来ていて、荷台には、キャンプ道具に加えてたくさんの段ボールが積まれていた。中にはちらほらジャグリング道具も見える。ニュージーランドに移住してきて「フリング」という名前のジャグリングショップを経営していたそうだ。もう個人輸入がインターネットで簡単にできる時代になってしまったので、今は店をたたみ、こうしてフェスティバルがある度に出張販売をするだけだという。もうじきこの商売もやめるそうだ。

朝ごはんのコーヒーとサラダせんべい(バンに唯一あった食料がそれだった)を食べていると、ニワトリがたくさんいる囲いの方から、メガネをかけたアジア人風の女性がこちらに歩いてきた。大きなサラダボウルにいっぱいの野菜を食べているディーナと僕は、そちらを振り向く。「卵が採れたわよ」といって、プラスチックのタッパーに入れた新鮮な卵を見せてくれた。その女性は、中国の広州出身だという。タッパーに入っているのは、今朝採れたての卵だそうだ。とても美味しいからぜひ食べてみて、と笑顔で勧められた。何もかけずにそのまま「Drink」しろ、と言う。断れるような雰囲気ではなかった。ディーナが、いかに産みたての卵がおいしいかをすでに力説し始めている。卵を受け取るとまだ温かく、ニワトリのお腹の下に手をさし入れているような気分だった。ディーナと広州の人はニコニコして僕のことを見ている。しばらく躊躇したが、殻をひざで割り、勢いよく中身を飲みこんだ。黄身は確かにクリーミーで、スーパーに売っているような卵とは全く違った。濃厚で、「生命のぬくもり」とはこのことか、というほどほかほかであった。

確かに美味しいといえば美味しいのだけど、いったいこれは清潔なんだろうか、と心配し始めると急に恐ろしくなってしまった。ひとつ食べるくらいなら大丈夫かな、と自分を納得させて、にこにこ「美味しいよ」と伝えると、「もう1個食べる?」と訊かれた。

エヘヘ、と笑い、すぐさまノォ、と言った。

食べ終わった卵の殻には、泥と羽毛がたくさんついていた。

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芝生を抜ける風

身支度を整え、ジョーの青い車に乗り込んだ。農場を出たら、延々と走り続ける。だらだらと際限なく続く牧場、鉄道、森。牛が、羊が、馬が、いたるところに身体を横たえている。幅のある道路。乾いた日差し。間違いなくここは日本ではない、と、土地に対する他者としての実感が徐々に湧いてくる。

1時間もしないうちに会場に着いた。そこは、プールとキャンプ場が一体となったレジャー施設だった。大部分が青々と茂った芝生で覆われている。早速テントを張ろうと思って気がついたのだが、僕の荷物はほとんどコリンのバンの中にあった。そしてコリンはそれを乗せたままどこかに行ってしまった。いつこちらに着くんだかもわからない。右往左往していると、ジョーが来て「もし昼寝したいのなら私のテントを使いなさい」と明るく言ってくれた。その言葉に甘えることにした。

ジョーのテントを張り終わると、唯一先に到着していた2人の青年たち、クリスとマットが、昼食に誘ってきてくれた。クリスは背丈が小さく少年のようで、マットは大きくて落ち着きがある。漫画のキャラクターのように対照的な2人だ。キッチンがあるから、そこで何か食べよう、と言った。キッチンの中を覗くと、流し台が6つついていて、冷蔵庫や電子レンジも完備されていた。きちんと機能する電気コンロもあった。

話は逸れるが、共用の電気コンロというと、イタリア留学中に、10分間隔で勝手にブレーカーが落ちる(火力も全然出ない)ポンコツの記憶が鮮明で、あまり信用できないのである。ビーフシチューを作るのに3時間くらいつきっきりで本を読みながら、がしゃんがしゃん落ちるブレーカーをその度に立って持ち上げに行ったのを思い出す。

2人はビニール袋に入ったレタスやトマトやツナ缶を出して、アーミーナイフで素材を切り、手早く手巻きサンドイッチを作ってくれた。巻くのに使ったパンは、少し厚めでぎっしりしていて、かみごたえがあって甘かった。ベンチに座っていると、日差しが強くてもうすでに肌が焼けてきているのを感じる。出発した時の日本は、まだまだ冬の気候だった。南半球のニュージーランドは、夏である。

食べ終わってテントを張るスペースに戻ると、他の参加者が少しずつ集まってきていた。気温は22,3度だ。日陰に入るとちょうどいい温度で、気持ちよい。前日の疲れがまだ取れていなかったので仮眠をとることにした。テントにもぐり、服をまくらにして、銀マットの上に横になった。周りの雨よけは張らず、蚊帳のような状態で寝た。木立を抜ける風が中を通る。遠くの芝生でクラブパッシングをする声が不明瞭に耳に入ってくる。その様子をなんとなく想像しながら目を閉じる。私はもう一度、ああ、ニュージーランドに来たなぁ、と思った。

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ジェイの演技

夕方、車に相乗りさせてもらい、フアパイへ行く。ジェイのショーを観るのだ。会場に入ると、ジェイは既にパフォーマンスの準備を進めていた。ぽっくりとした北欧風の天井照明が連なる、木を基調とした内装。気負いのないレストランだ。切り株のような椅子と背の高いテーブルがいくつもあって、ガタイのいい、ヒゲの生えたおじさんばかりが座っている。近所の人の集会所のような役割なのだろう。フェスティバルとは関係の無い人たちもたくさんいた。

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舞台(と言ってもただ机を片付けただけのスペース)には、ボール、リング、クラブ、といった道具が床に大量に並べてあった。ジェイはそこで、ゴールドの新型MacBookをいじっていた。見に来ている人の中には一般のお客さんも混じっているのに、ジャグラーに向けてするように、いつも通りショーを始めようとしていた。僕は前の方に座り、買ってきた炭酸ジュースを開けた。すぐにジェイが喋りだした。

「みなさんこんばんは。今年で僕は39歳になって、ジャグリングを30年続けていることになります。これから見せるショーは、『時間』に関するジャグリングのショーです。たぶんみなさんが見たことあるようなものとはだいぶ違うと思います。でも、気に入ってくれたら嬉しいです。では、よろしく」

するとまずジェイはカニエ・ウエストの曲をかけて、リングをジャグリングしだした。「マニピュレーション」に重きが置かれた演技。時々、しつこいぐらいリングを「操っているだけ」のシーンもある。ただただパシパシと手から手へ渡らせるだけ。急に5枚のリングを空中にリズムよく一定時間放り投げたと思いきや、今度は3枚だけで変な振り付けをする。やっとジャグリングをしたかと思うと、またすぐに独特な振り付けをし始める。ジャグリング中にドロップをするとそれをカヴァーするために床にあった道具を拾って即興で高度な技を繰り出してみたり、壁に向かって投げつけたり、天井に思い切り当ててみたりする。

ひとつ流れを終えると、今度は話が入る。

「僕は小さい頃、おじいちゃんと一緒に湖に釣りに行くのが好きでした。でもその頃は生きた魚が針に引っかかる、ということが想像できなかった。釣りというのは、水面下に魚を持った人がいて、針が落ちてきたのを見ると引っ掛けてくれるんだと思っていたんですね。だから、魚が1匹も釣れない日は、架空の『魚人』にいわれのない怒りを向けていたものです。まぁとにかく、これが私の最初の”catch”に関する話です」

小噺が終わると、また別の道具を使ってジャグリングをしだす。この繰り返しであった。

ショーが終わったあとジェイに話しかけに行った。直接会うのは4年ぶりだ。奥さんのミルヤと、息子のシンドリくんにも挨拶をする。シンドリくんは、ほんの半年ほど前におぎゃあと生まれた、まだまだ小さな赤ん坊だ(おぎゃあと言ったかは知らないけれど)。騒音をがなり立てるショーの最中も泣き出すことはなかった。思い返してみれば1週間の滞在で、ただの一度も泣いたのを見る事はなかった。ジェイが「コンニチワ」というと、シンドリくんはジェイを見た。私が「こんにちはシンドリくん」と言うと、今度はこちらを見た。ミルヤは、笑いながらまた「コンニチワ」と言った。すると手足をめいっぱい広げ、えい、えい、と空を突いたり蹴ったりしだした。僕たち3人はじたばたするシンドリくんを見ていた。

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レネゲードショー

「レネゲードショー」は日本にない習慣である。欧米のジャグリングのフェスティバルには欠かせないイベントだ。夜10時、11時くらいから始まって、そのまま日付が変わるまでだらだらやっている。レネゲード用にセットされた舞台(といっても、照明が当たっているだけの空きスペースであることが多い)の前にみんなで集まる。集まった人の中から、我こそは、という人が舞台に入ってきて、なんでもいいので披露する。初日の夜、まず公式のイベントとして行われたのがこのレネゲードであった。

少数だが正統派のジャグリングをする人もいる。仰向けになった男の人の手で支えられながらヴァイオリンを弾く人もいる。母親にゲイであることを告白したときの話をする人もいる。MCが面白ければ面白いほど、大したことをしていなくても観客は大盛り上がりする。このフェスティバルのMCは、大柄で人のいい大道芸人のザックだった。日系ニュージーランド人のコウゾウと一緒に、オークランドの街角でバスキングをしているそうだ。僕も、酔った勢いに任せてディアボロの演技をした。実に、大盛り上がりだった。終わると、控えていた次のパフォーマーが愉快に話しかけてくる。その愉快な気分で、ある人が調合したという、ジンジャービールという汚い色の液体を勧めてきた。会場のみんなが「飲むな、飲むな!」と言う。私はすっかり酔っていて、それを勢いよく飲んでしまった。口の中にずっと変な味が残り、なんだか気分が悪かった。

レネゲードショーが終わった後、僕はガラショーに招待された。演じる方としてである。準備をするため、次の日にミーティングをすることになった。

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クリスティーンに会う

前日、火を扱った道具が見られるファイアーセッションを経て遅くまで起きていたものの、不思議と目が早く覚めて、ミーティングが始まる時間までずいぶんあった。

このフェスティバルにはワークショップの時間もある。各自がホワイトボードに教える内容を書くだけで、その中から選んで好きに参加すればいい、という形態のものだ。初めから最後まで参加してもいいし、途中から適当にぶらっと入ってもいい。

僕は正午になるまで、会場で知り合ったクリスティーンとコンタクトポイのワークショップを受けたり、空いた芝生でディアボロを教えあったりした。クリスティーンはオーストラリア出身の女の子である。見た目はむしろ日本人だ。彼女によれば、両親はマレーシアの中華系の家庭の生まれだという。だから一緒にいると、2人とも日本から来たのか、と尋ねられることが多々あった。というより、僕はどこか東南アジアの人だと思われて、「日本から来たっていうのは君か」とクリスティーンが標的になった。正午にクリスティーンと別れて、昨晩レネゲードが行われた場所に向かった。なんということはなく、音楽を提出して、照明について説明し、それで終わった。実に簡単である。

ミーティングが終わると、髪を濡らしたクリスティーンを見つけた。なにをしていたの、と聞いてみると、「ウォータースライダーが面白すぎて、もう今日だけで3回行っちゃった」ということである。その3回というのが、3本滑ったのではなくて、今日で3セッション目という意味で、まず眠りから覚めてすぐに滑って、汗をかいたらまた滑って、ジャグリングに疲れたらまた滑る、ということをしていたそうである。呆れた。朝から目覚まし代わりにウォータースライダーに行くクリスティーンは低い声で「あなたも次は一緒に行くべきよ」と言った。

プールのショー

ガラショーの前に、ジェイによるもうひとつのショーが行われた。「プールでやるらしいよ」と言われたので、僕はてっきり「プールの辺り」でやるのだという風に解釈したのだが、演技が行われたのは、本当に室内プールのへりであった。会場にはフェスティバル参加者ではない一般の人も遊びに来ており、三々五々自由に遊泳していた。そこへジャグリング道具を持ってジェイがひょこひょこ現れて「どうもみなさん」と挨拶をして、ジャグリングをし始めた。僕はすっかり感心してしまった。ポカンとしている水着姿の人々が多い中、外からそのままの服装で入ってきた僕は、すごく気分がいいのとおかしいのとで、ゲラゲラ笑いながら演技を見ていた。もちろんジャグラーではない全員が唖然としているのでもなく、面白がる人はとことん面白がって歓声をあげて盛り上がっていた。

あらかた舞台上を暴れ終えて、そこら中に道具や毛糸や紙くずが散らばっている中、最後にプールの中に飛び込んだジェイに、心から拍手を送った。

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ガラショー本番

日が暮れ始めて、ガラショーの時間が来た。こちらに来るまでこんなことになるとは思っていなかったので、とりあえずたまたま持ってきていた、普段使っている演技の曲を渡して、急いで準備をした。衣装もなかったからあり合わせの中で一番まともに見えそうな服を着るしかなかった。

楽屋には、コリンが作ったピッツァが置いてあった。それを頬張って本番に備える。舞台裏にはガラショーに出る人たち全員が待機していた。そのうちの、日系ニュージーランド人リサと仲良くなった。私と同年代である彼女は、生まれも育ちもずっとニュージーランドだ。両親が日本から来た人たちなので、日本語も上手く話せる。会場では度々見かけていたし、インターネットでもいくつかビデオを観たことがあったものの、それまで一度も話さなかった。だが緊張感を共にしていたこともあってか、舞台裏では気がついたら会話が始まっていた。何日かぶりの日本語で気を紛らわした。

若者2人の愉快なMCを交えて進むガラショー。コメディ調の演技、正統派ジャグリング、マジックなど、趣の異なる演目が、よいバランスで並んでいた。そして気がついたら自分の番が来ていた。始まってみればあっという間であった。演じ終わるとちょうど中休みの時間になったので、舞台から降りて観客席に混じってショーを観た。

大喝采で全ての演目が終わると、DJタイムが始まった。あたりはすっかり暗くなっていた。もう一度舞台に上がって、出演者のみんなで、ビールを飲みながらガラショーのポスターにサインをした。その時、ジェイが近づいてきて、「俺はナオヤの演技、たぶん一番好きだったよ」と言ってくれた。

たくさんの人が踊り狂っていた。ヒッピー風の人たちの騒ぎようは生半可ではない。あと1時間したら世界が終わるのか、というぐらい全力で踊っていた。DJの隣では、虹色のシャツにベレー帽をかぶった白髪のおじいさんが、サックスを吹いてセッションをしている。手持ち花火を持った数人が、駆け回っている。遠巻きに見る人たちは、ショーの感想を語りながら笑っている。僕はビール片手に、時々踊りに加わったり、客席側の椅子に座って話をしたりしていた。コリンは僕の演技を見て、すごく誇りに思ったよ、といつもの笑顔で言ってくれた。とても幸せな気分だった。

ジャグリングオリンピック

3日目。クリスティーンが「あなたもったいないわよ」と、ことさらに低い声で言うので、一緒にウォータースライダーに行った。ベルギー人の青年、アスターもついてきた。何度も何度も滑っていると、確かに気持ちが良かったし、もはや自分がどこで一体何をしているのかわからなくなってきた。途中から空が曇ってきて、滑り終える頃には寒くなってしまった。

スライダーから戻ると、ジャグリングオリンピックが始まっていた。ジャグリングやアクロバットを使ったゲームが行われるイベントだ。どれだけ同じパターンをジャグリングし続けられるかを競う耐久戦に始まり、逆立ち耐久戦、バランス耐久戦、四つん這いの人に乗って進むヒューマンサーフィンレース、主催者のサムにフープを投げ入れる輪投げ競争など、面白いゲームが盛りだくさん。勝った人は、きちんとしたメダルがもらえる。準優勝でも、フォーチュンクッキーを受け取ることができて、特典として中身をメガホンで読んでもらえる。

明るい芝生で、日照りが強い中延々と競技が続き、顔中真っ赤になってしまった。僕は結局、何のゲームも勝てなかったが、前日新しいディアボロを買ったコリンとディアボロ・ロングパスに出ることを約束していたから、一緒にチームを組んでディアボロを飛ばした。正直なところ、コリンは上手いとは言い難かった。だがゲームを終えて、がははは、と笑いながら肩を思い切り抱いてきて、一緒に出てくれてありがとう、と言ってくれた。

ワークショップをする

3日目の予定がほぼ終わるころ、主催者のサムが声をかけてきた。

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サム


「ナオ、ガラショーに出てくれたから、これに加えてワークショップをやってくれれば入場料はタダにしてあげられるよ」
つまり他のアーティストたちと同じ条件にしてもらえるということである。願ってもない提案であった。それで、急遽ディアボロのワークショップをすることにした。トビアスという20歳くらいの青年が、特に熱心に一緒にディアボロをやりたがったので、オリンピックが終わるとすぐに場所を移動してワークショップを始めた。

「ニュージーランドにはそもそもディアボリストが少ないからさ」

とトビアスは笑った。初心者に教えることはあっても、同じレベルで交流する機会がなかなかないのだそうだ。クリスティーンもあとから来て、3人で技に挑戦したり面白いアイデアを見つけたりした。

あっという間に夕暮れになった。ワークショップを終えたら、クリスティーンが、「温水プールに行こうかな」と言った。またか。トビアスは、車の免許の制限があって、夜10時までしか運転ができないから、というので、ハグをして、残念そうな顔で帰って行った。

僕とクリスティーンは、すっかり日が暮れた後で、温水プールに向かった。ジェイがジャグリングをしたところだ。中に入ると、もうすっかり人はいなくなっていて、プールに入っているのは私たちの他に、2人だけだった。照明も消されていて、吹き抜けの天井から夕陽のオレンジだけが降り注いでいた。中にいた2人のほかのジャグラーが、もう間もなくクローズだぜ、と言った。

係員が来て締め出されるまで、広々としたプールを僕とクリスティーンだけでゆらゆらと泳いでいた。

終わりの風景

プールから上がると、人はすっかり減っていた。空にもうっすらと星が見え始めていた。これにはとても驚いたのだが、1時間ほど前まであんなににぎやかだったはずの会場には、もう数えられるほどしか参加者がいなかった。次の日が平日だということもあって、皆早めに帰ってしまったようだ。ファイヤースペースも開放されていたが、ゆったりとファイヤーポイを回すフランス人以外は誰も火を灯しておらず、ただただ4、5人がぽつりぽつりとそれを眺めているだけであった。

本当に、静かだった。小さい頃、大人が祭りの片付けをしている時に感じたような、穴の空いた茫洋感を思い出した。一瞬にして共同体のあった世界が「ただの場所」になるとき。

とても静かで、寝そべると星が満天に見えた。すごく疲れていたので誰とも話す気力もなく、僕は瓶ビールを飲みながら夜空を見ていた。するとまたクリスティーンがほいほいとやって来て「なんだか、寂しいねえ」と、やっぱり低い声で言った。本当はその後に2回目のレネゲードショーがあったのだけど、疲れ切っていたので、歯を磨いてテントに戻って、そのまま横になった。

行って、帰って来る

次の日は、スケジュールとしては何もなかった。テントをたたんで、荷物を車に詰めて、ただただ別れを告げた。皆はニュージーランドや、遠くてもオーストラリアに住んでいたりする人たちだから、またすぐにでも、という雰囲気でさよならを言う。僕は、これから地球の赤道を越えて、日本へ帰る。頭の中で地球儀を想像する。でも皆に「また会おうね」と言われるたびに、地球の反対側へ帰るなどということも、車で1時間の家に帰るのも、それほど大差はないのかもしれない、と思い始めた。

行って、帰って来る。

フェスティバルのあと、ディーナと一緒に観光をした。彼女は車を運転しながら、矢継ぎ早に質問を浴びせかけてきた。それに一生懸命英語で答えながら、気がつくと僕たちは丘の上に着いていた。「ニュージーランドに来たら、どうしても夕日が沈むのを見たいのよ」とディーナは言った。だから僕らは、誰もいないところで、美味しいワインをすすりながら、海の向こうの水平線に沈んでゆく太陽を見守ることにした。

草原と、大きな海と、岩肌と、雲と、風。それ以外何もなかった。1時間ほど経って、じっとりと夕日が消えていく時、ああ、自分は地球にいるんだ、ということがすごくよくわかったようだった。

「これ」に住んでいるんだ、僕は、と思った。

いつも騒がしいディーナは、僕から少し離れて、独りですごく静かに向こうを見ていた。■

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2021年8月5日公開 文・写真 = 青木直哉

※2016年7月4日発売『書くジャグリングの雑誌:PONTE』第12号掲載の原稿に、大幅に加筆・修正したものです。

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