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ジャグリングがつなげるもの 欧州ジャグリング紀行2018 memory no.29

EJC4日目
いつもこれを書いているのが夜の1時過ぎで、なんとかしないといけない。今はファイトナイトを見た後。
眠い。
なんとか、Youtubeの、”Rainy Jazz”と言うお気に入りのラジオ局を聴きながら、外のバルコニーで書いている。ここが今回の僕のEJCのお気に入りの場所である。
※ ※ ※
4日目、生活のリズムがつかめてくる。
昨日のステージに出たおかげで、自分のことを認識してくれる人がいる。
この日はイベントが少なかったので、割に書くことがない。
ただ、オープンステージに、日本人の鈴木さんが出た。
やはり同郷の人が出ると、未だに嬉しいものですね。
EJCに日本人が来る、ということの意味を考える。
主催のフレッドにインタビューをした時、
「日本からも人がきてくれるのは、アゾレスのコミュニティにとっても、島が魅力的だと言うことを示唆しているからとても誇りなんだ」
と言っていた。
そう、そして、言葉についても考える。
ミツオさん、という、半分フランス人で半分日本人のジャグラーに出会った。
彼は日本語をすごく上手に話す。
だがやはり彼と話す時、少しだけ、わかりやすい日本語で話そう、という意識が生まれる。
自然、話すことについても、「日本で暮らしている人」に特有ではなかろうか、と感じられる文脈については無意識に避けて通るように話したりする。
そういう風に話している時の自分を客観的に見ながら、英語を話している時の自分のことを考える。
僕は、白状すると、今だに、英語を母語とする人との会話に慣れない。
英語がそれほど上手くないから、というのが主な理由なんだけど、それにしても、相手が気を使っているかもしれない、と思ってしまい始めた時に、上手く歯車が回らない時がある。
ただ、シンガポールの人なんかだと、その感覚は薄い。
同じような、アジア人の見た目をしているだけで、精神性も似ていることをおのずから前提にするようなところがある。
これはなぜか。
英語を話す時には、僕は「英語を話す人の態度」を自分に憑依させて、日本語の人格と切り離された人格で話している。
イタリア語を話す時は、また少し違った感覚で話している。
言葉には、その言葉の”言語外現実”と密着に結びついた「話されかた」があるからだ。
たとえばその、居酒屋で焼き鳥を食べて、美味しかったよ、というようなことを言うだけでも、そこには日本語という形で、その思念を表に出すプロセスの中に、「それを話すのが日本語であるべき理由」が宿るような感覚がある。
外国に暮らすと、その国の言語を身につけやすいのは、言葉に囲まれる、ということもそうなんだけど、何より、その言葉と密着した「現実」を実際に経験できるから、だろうと思う。
同じように、EJCの中にいる人たちでも、なんとなく、そこに特有の「言葉の話されかた」「トピックの選び方」なんかがあったりする。あとは、「態度」とか。
そのことを、いつも僕は考えてしまう。
EJCという文脈で話される言葉、そして、共有されている認識、みたいなものに、自分をチューニングさせている。
だから、日本語を話しながら、同時に片方では英語を話す、というのはとても難しい。
言語が違うと、そしてそもそも受け答える内容だって、やや違ってくるから、ということもある。

ジャグリングがつなげるもの 欧州ジャグリング紀行2018 memory no.28

オープンステージ、というのがEJCにはある。
立候補すれば誰でも演技をすることのできるショーである。
例年のフェスティバルでは、開催期間中、5〜6日間オープンステージがあるのだけど、今年は規模が比較的小さいこともあってか、3日間しか開催されない。

3日目の朝、出場希望者全体のミーティングがあった。
朝11時。
11時5分前くらいまでステージの前にいたのだが、裏側に回ってみるとだいぶ人が集まっていた。
今年はショーを行うスペースがメインのジムの中にある。
これは2015年のイタリア開催の時もそうであった。

集まった人たちの輪の中に加わると、いつもオープンステージを仕切っているポーラとコンチャがいた。
特にポーラとは、もう2012年からずっとオープンステージに出る度に会っている。
ポーラってなんか誰かに似てるんだよなー、と思うんだけど、いつもそれが思い出せない。だがとりあえず、ピクサー映画『インサイド・アウト』のヨロコビに似ている。
ビールの蓋をあけるのがうまい。
コンチャもポーラもドイツ人。

待っているうちに続々と人が集まってくる。
各々の道具などを聞きながら、いつ出たいか、という希望も聞いていく。

ここで初日に出る人がなかなか決まらなかった。
本当は二日目に出たかったのだけど、仕方ないな、と思い、バリエーションとしてもちょうどよかったので、コンタクトジャグラーのたろりんと一緒に、「じゃあ、出ます」と言って出ることにした。
ミーティングの後は2時くらいまで、照明のチェックをしたり、音楽のチェックをしたり、司会の人に何を言って欲しいかを伝えたりする。

※ ※ ※

さて、今年は、去年に引き続いて、お店を出すことにしていた。
といっても気楽なもので、机を出して、その上に商品を並べるだけである。
別にずっと張り付いている必要もない。
なんだけど、机がなかった。
いやあ、昨日、「机用意しとくよ!」と言われたはずなんだけどな、と思うが、コンベンションの大きさを鑑みれば、これくらい、忘れられていてもなんてことはない。
ひとまず、どうしようかなぁ、と思っていたが、展示用においてあった木棚を横に寝かせて机がわりにすることにした。
今回のEJCは、あまりイベントがキツキツに入っていないので、会場内にあるミニマーケットに行ったり、お店の様子を見に帰ったり、テントに帰ってみたり、ジムに行ってオープンステージの演技を練習したりを繰り返しながら過ごした。

夜8時半。
オープンステージに備えるため、舞台裏に入る。
スペイン、イスラエル、ドイツ、そして日本など、各国から来たジャグラーたちがいる。
各々嬉しそうに通し練習をしたり、不安そうに準備運動をしていたり、メイクをしたりしている。
トリを飾るフィンランド人のラウリは、ポーラとコンチャに気軽に話しかけたりしている。
今まで5回のEJCにきて、その全てで演技をしてきた。
今回で、6回目。
自分は、どう感じているか?
これだけ何回も出ているのだから、何か進歩があってもいいよなぁ、と思うのだけど、自分が進歩したことって、果たしてなんだろう、と考える。
何が起こるか大体把握している、という意味では、大いに進歩している。
もう、ジャグラー7、800人の前で演技をすることには、慣れたような気がする。
ポーラもコンチャも、いつでも陽気に演技をする人たちを盛り上げてくれて、不安そうな時には、肩を抱いてくれる。
ミーティングの一番初めに言った一言。
「オープンステージは、みんなが楽しむためにあるからね」
そうそう、これがEJCだよな。

EJCに来て、オープンステージに出る醍醐味はいくつかある。
多くの観客の前でステージに立つことができる、というのはその最たるものであるし、その観客も、ジャグリングが難しいことを知っているから、挑戦する人には優しい。
個人的に、僕がいつも楽しみにしているのは、演技が始まる前に、円陣を組んでわあーっと観客席に聞こえるくらいの声を出すときと、全てが終わって、みんなで手を繋いで礼をした後、舞台裏に戻ってビールで乾杯をするときである。
その場限りなんだけど、そこには固有の、一体感がある。

ジャグリングがつなげるもの 欧州ジャグリング紀行2018 memory no.23

〜日記より〜

次の日の朝。テントが日照りで、とても中にいられないぐらい暑くなるので、外に飛び出して、シャワーを浴びる。
シャワーは、キャンプ場の中にある。シャワーの数はそれなりにあるのだが、少し待つ。洗濯をしたりする人もいるから、そのせいもある。
シャワーを終えて、ひとまずジムへ行く。ジムは、片面が全面ガラス張りになっているので、向こうの景色が一望できる。
山があり、海がある。地平線が見える。
そんな中、ジム全体を埋めるぐらいのジャグラーがみんな物を投げている。
今日は、ジャグリングをしながら町を練り歩く、パレードがある。シャトルバスに乗って、町まで行く。会場から、リベイラ・グランジまでは、シャトルバスで7、8分ほど。駐車場のようなところについて、パレードが12時きっかりに始まるのを待つ。
ここで、芹川さんとも初めて会う。彼はPONTEでも連載をしてもらっている、現在オーストラリア在住のジャグラー。オーストラリアのジャグラーを紹介してもらう。
パレードでは、鼓笛隊が先頭を歩く。町の道路を歩いていると、道路沿いの住人たちが窓から顔を覗かせる。リベイラ・グランジは小さな町で、普通の速度で歩けば、ものの10分、15分で、町の外から中心の広場までたどり着いてしまう。しかしパレードでは、1時間かそれ以上かけて、途中ウェーブをしたりしながら、広場まで行く。
広場に着くと、しばらく休憩の時間があった。炎天下で歩き続けるのでとにかくみんな喉が乾いている。水やビールを飲む人たち。広場にあるカフェではアイスやお菓子も売っていた。よく売れる。僕もエッグタルトを買って食べた。安いし、非常に美味しい。
1時間ほど休憩があってから、広場でゲームが始まる。長くジャグリングをし続けるエンデュアランス、クラブをはたき落としあうコンバット、ディアボロを小さな箱に入れるコンテストなど。だが随分暑くて、途中で見るのにだんだん疲れて来る。

広場はとても穏やかな雰囲気だった。

ゲームが終わると、今度は広場を降りたところでショーがあったが、じっと何かを見るのに疲れてしまったので、ひとまず近くのビーチに行くことにする。いまいちどう行くのかわからないが、とりあえず浜の方角へ向かい、なんとかたどり着く。ビーチでは、すでに何人かジャグラーや観光客の姿が。ただ浜から海を眺めるつもりでいたが、やはり海にいながらただ眺めているだけではどうしようもないので、別に海に入る格好をしてきたわけではないが、Tシャツを脱いで、海に入ってしまった。
波が強い。
一緒にいたドイツ人のヘナが、「サーフィンをしよう」というので、思い切って試してみることにした。今までの人生で、サーフィンなどしたことがない。とりあえず、やってみる。先にヘナが見本を見せてくれた。だが、あまりうまくいっている様子ではない。しばらくトライした後に、疲れた顔で戻ってきて、「波が強すぎるね」と言った。
しかし、もうボードを借りてきてしまったことだし、と思って、とりあえずこちらも挑戦してみることにした。結果は哀れなもので、立ち上がることはおろか、波にただただ流されただけで、最後には、思ってもみなかった方向に流されていってしまい、一瞬、死を覚悟した。
浜遊びを終える頃には、日が傾き始めている。(と言っても、7時を回っていたが)
スーパーに立ち寄ってから、ピザ屋に行く。のんびりと食事をしていると、帰りの最終バスの時間になる。少し焦って広場へ向かい、なんとか、一緒にいたヘナ、台湾人のペイ、芹川さんと一緒に、バスに乗り込んだ。

帰ってきたら、色々と片付けるべきことを片付け、少しステージに向けての練習をして、床についた。

ジャグリングがつなげるもの 欧州ジャグリング紀行2018 memory no.22

 サン・ミゲル島の空港は、小さかった。日本の小さい地方空港(徳島とか)ぐらいの大きさである。ロビーを出ると、僕たちよりも前に到着したジャグラーたちが大勢待っていた。
 ここからは送迎バスが出るので、その到着をみんなで待っているのだ。中には知っている顔もいた。ああ、やっぱりEJCは違うな、と思う。とにかく人数と、いる人達のバラエティが違う。
 空港から会場まではバスで20分ほどだった。到着時点では夜だったので、全く外の景色は見えない。いったいここはどんな場所なのだろう、とワクワクした。写真で見た限りでは、あじさいが咲いていたり、緑の山並みが見えたり、あとは、海にはクジラがいる、というイメージもあった。別にここからクジラが見えるというわけでもなかろうが、ともかく、自然がいっぱいということはわかっているのだ。

 会場に着くなり、畜産を営んでいるところの、あの穀物と土と畜糞が入り混じった匂いがした。ほうほう、と思ってあたりを見回したいところだが、やっぱり暗いので何も見えない。 
 会場に着くと、また、たくさんの知っている顔があった。その中には、毎年ステージを仕切っているポーラもいた。もうなんだかんだで6年の付き合いになる。いやはや。
 僕はポーラが大好きなんである。いつもまるで親戚のお姉さんのように、「よく来たね」とか「来年も待ってるからね、ステージの席は確保しとくからね」などと言ってくれる。そして、乾杯のためのビールの瓶をガシャガシャ運んできて、豪快にガパガパ開けていく姿も、男気があってホレてしまう。そういえばポーラは、僕がEJCに行きたいと思うきっかけになった2006年のEJCの様子を収めたDVDの中でも映っていたよな。その時のことを思い返すと、彼女と今こうして友達でいるのは実に不思議な感じだ。
 「ここねえ、この会場の窓はオーシャンビューなのよ」と言った。
 そう、今年の会場の体育館は大きな大きな窓があって、そこからは外が一望できた。これは、朝が来るのが楽しみだな、と思った。
 他には、ノルウェー人のジャグラーたち、ベルギーのジャグラーたちなど、こちらもずいぶん長いこと交流のあるヤツらがすでにたくさんいた。
 やっぱりね、この感じなのである。
 普段は忘れている。日本で、普通に働いて、まぁ時々ジャグリングはして、それでも特に外国の空気と触れることのない生活をしていると、たくさんのジャグラーたちと自分に接点がある、ということをどんどん忘れていってしまうのだ。しかしこうしてEJCに来ると、一気に、思い出す。自分がいかにもっと大きな世界と触れ合ってきて、人々と交流を重ねてきたか、全部思い出すのである。
 それは、他人に出会う、ということよりも、「そうだった自分」に改めて出会う、という、そのことの感動のほうが、よほど大きい。
 みんなが「ナオー、元気かよー」と抱きしめてきてくれるところにいると、僕は「別の自分」になれる。「本当の自分」ではない。僕は日本で働いている時の自分になんら不満はないし、なんなら、今現在では、こっちの方をいわゆる「本当の自分」だと思っているくらいだけど、まぁ、こうして他人を通して自分を知る、ということは、自分と似たような境遇の人たちしかいないところでは、決してできないことなのだ。

 かくして、体育館にいた知り合いたちと、思う存分挨拶をしてから、僕は自分のテントをたてに向かった。

ジャグリングがつなげるもの 欧州ジャグリング紀行2018 memory no.21

いよいよロンドンを出て、アゾレス諸島へ向かう。アゾレス諸島はアメリカとヨーロッパの間にある小さい島々である。メインの島、サン・ミゲル島に行く。
案外飛行機はたくさん出ている。「アゾレス諸島」という名前はまったく聞いたことがなくて、イメージが湧かない。きっとこんな時期にそこへ行く人はジャグラーだけなんじゃないかな、と思っていた。
しかし蓋を開けてみれば、サン・ミゲル島行きの飛行機に乗る人々の9割ほどがジャグリングとは関係のなさそうな人たちだった。もちろん間違いなくジャグラーも混じっているが、その他大勢は、まぁどう見てもジャグリングの大会に行く人達ではない。

ロビーで待っていると、日本から便を乗り継いできたたろりん君が現れた。
彼は、日本から何カ国も飛行機を乗り継いで、ここロンドンまでやってきて、最後に乗るアゾレス行きの飛行機がたまたま一緒だったのだ。
少し久しぶりに知っている日本人に会うので、やはり嬉しかった。たろりん君は、なぜか機内食が出てこなかった、と言って嘆いていた。
彼が持っていたポンドで、一緒にサンドイッチやりんごを買い、僕らは飛行機に乗りこむ。

ジャグリングがつなげるもの 欧州ジャグリング紀行2018 memory no.19

ロンドンでバレエを踊った話(後編)

スタジオからアパートは、歩いて15分ぐらいだった。そこは、大きな大きな体育館。
中に入るともう何人かが集まっていて、その中にショーンもいた。
ショーンは、もじゃもじゃでグレーの髪が特徴的な人だ。バレエやコンテンポラリーダンスが大好きで、ジャグリングとダンスを融合する試みを90年代からずっとおこなっている。もうおそらく50歳を過ぎた大人なのだけど、いつまでたっても好奇心を失わないでいる。自分でも、言っていた。「僕はジャグリングのことを考えると、いっぱい可能性があって、まるでお菓子屋さんに来た子供みたいにワクワクしちゃうんだよね」と。
「へーい、なんでこんなところにいるんだい」と、ショーンは僕を見るなり、肩に手を置いて優しく迎え入れてくれた。明日にはアゾレス諸島に行くんだけど、少しだけロンドンに滞在してるんだ、と僕は言った。
するとショーンは、はじめの笑顔を崩さず、いつもの高い声で一息にこう言った。
「そうかそうか。じゃあね、今日はダンスのレッスンをまずやるから、君も一緒に僕たちと踊ったらいいよ、ここに来ちゃったからには、踊っていかなくちゃダメだよ」
そういうわけで、一緒にみんなと踊ることにした。
適当に広がって、前に立っているバレエの先生の真似をする。バレエなんか一度もやったことがないので、本当に見よう見まねで恥ずかしいのだが、周りを見てみれば、何度もガンディーニジャグリングの作品に出演してきた人を除いて意外にみんな苦戦している。ショーン自身も、もう25年以上ガンディーニ・ジャグリングをやっているのに「こうかな、それともこうかな!」などと言いながら楽しくやっている。(しかも特別うまいわけではないのがまた微笑ましい)
ショーンは練習の最中、笑顔を絶やさない人だった。僕が見ている間ずっと、常にチームの人たちを笑わせながら、ジャグラーやダンサーたちを丁寧にまとめあげていた。彼の激しい作風からは想像しづらい風景である。また、今回作っていた作品が、バランスボールのように大きなボールを、十数名のジャグラーとダンサーが噴水の中でジャグリングする、という明るい作品だったこともあるのだろう。そして生演奏のジプシーミュージックバンドも来ていて、その演奏に合わせて、みんな楽しそうにしていた。ドミニクも、すごく楽しそうだった。

ジャグリングがつなげるもの 欧州ジャグリング紀行2018 memory no.17

 ロンドンに着く前日、僕は泊まるところがなかった。

 まあ、こういうアテの無い旅をしていると、別にそんなことは普通なのだが、ひとまず、どこかは泊まるところを確保しないといけない。

 空港で待ちながら色々と連絡を取った末、リサ、というクラブジャグラーの家に泊めてもらえることになった。

 しかし前述の通り飛行機が遅れてしまった上に、さらに直前になって、「うっかり、別の友達が来るってことを忘れてたから、もう一人ジャグラーが同じフロアにいるんだけど、そっちの部屋でもいい?」と言われた。まぁ、こっちとしては泊めてもらえるだけ、ありがたい。もちろん、承諾して、遅れてきた飛行機に乗り込んだ。

 ロンドンに着いた頃にはもう夜中。

 僕は言われた住所に行って、通りを歩いていた。

 すると向こうから、ニコニコと笑いながら、大柄なオーストリア人が近づいてきた。

 「よー」と言って近づいていきたのは、ドミニクだった。ドミニク君は、たしか3年前くらいからちゃんとした交流がある。日本のアニメやマンガが大好きで、腕にはワンピースのタトゥーがしてある。「よく来たなあ」と言って、実に嬉しそうに僕を迎えてくれた。

 彼とリサは、同じアパートの同じフロアに泊まっていた。たぶん、これは厳密には人を泊めてはいけないところなんじゃないか、と思ったのだが、「大丈夫だよ」と言って泊めてくれた。

 部屋は正直なとところかなり狭くて、室温も湿度もかなり高かったので、窓を開けっ放しで、床に寝袋で寝た。

ジャグリングがつなげるもの 欧州ジャグリング紀行2018 memory no.16

(no.15は今週土曜日にこちらにアップロードされます)

実のところ、CATCH!フェスティバルについては、それほど語るべきことがない。だから、帰り道に、何が起こったかを記しておこう。

とりあえず僕は、CATCH!フェスティバルが終わると、空港に向かった。少し離れたマンチェスターに戻る形だ。一応、車に乗せてもらえないか、周りの人に色々と聞いてみたんだけど、時間も合わなかったので、アップルビー村から出ている電車を使うことにした。(駅舎は、まるでハリー・ポッターに出てきそうな、趣のあるものだった)
ちょうど同じくらいの時間の飛行機に乗るんだ、と言っていた、オランダ人のヤン君と一緒に電車に乗った。
しばらく電車に揺られていると、急にアナウンスが入った。
「ただいまヨーク駅に落雷があった影響で、鉄道全線に停電が発生しています。この電車も、どこまで運行できるかわかりません。」
車内がざわつく。
目の前に座っていたおばあちゃんと話すと、「きっとこの電車はもうマンチェスターまではいかないわよ、途中どこかで乗り換えないと」と言う。
まぁしかしあがいてどうにかなるものでもないので、二人で黙って、本なんか読みながら、ヤン君はパズルなんかをときながら、電車に乗っていた。
すると予想通り、電車は止まってしまった。
あーあ、と思ったが、仕方がない。のろのろと動きつつ、なんとか次に乗り換えるべき、リーズまでは着いた。
しかしそこからが問題だった。何しろほぼ全ての電車が止まっているので、空港までの電車も当然ない。あっ、次が出るよ、と電光掲示板に表示されたかと思いきや、それはたちどころにキャンセルされる。ヤン君の飛行機は僕の飛行機よりも早いので、かなり焦っている。
いやしかし、一つの駅に落雷があっただけで、こんなことになるんですね。本当に、イギリス全土に影響があったようである。
ヤン君は、実に焦っていた。僕も、やや焦ってはいるのだけど、まぁ、なんとかなるだろう、くらいにしか思っていないから、いまいち具体的な行動にならない。ヤン君はどんどん行動する。駅員さんに聞く。違うホームを目指す。
そうこうするうち、いよいよ、本当に電車が出そうだ、というホームが発表された。
そこで僕らは走った。ついでに、一緒にホームで立ち往生していたカップルとも一緒に。そしてホームについて、電車の姿が見え、よし、乗ろう、とみんなの顔がほころんだところで、電車のドアが容赦なく閉まった。
「おい! 待ってよ! 嘘だろ!」
ヤン君、叫ぶ。僕らは、まさにその電車の、もうドアの前に立っている。
「いいから、一瞬、開けてくれよ!」
しかし車掌はきっぱりと首を振って、電車は出発した。
一瞬にしてヤン君の顔は歓喜から絶望に変わった。
呆然としてしまった。あと5秒早ければ、きっと乗れただろう。そして、2時間は余裕を見て空港に到着できただろう。
しばらく、4人で話したが、もうタクシーで行くしかなかった。
そんなわけで、下に降りて、タクシーを見つけ、みんなで運賃を割り勘で空港に行くことにした。
実のところ、僕の便は更に夜遅くだったから、別にみんなと同じように行く必要はなかった。むしろ、トラムにでも乗って、のんびり乗り継いで向かった方が面白いかな、くらいに思っていたのだけど、まぁ、だめですねえ、こういうところで、僕は自分を貫けなかった。
結局、一人1000円ぐらいだったか払って、僕らはマンチェスターの空港に到着したのだった。

なんだかなぁ、と思ったけれども、まぁ、空港には着けたので、文句も言えない。
カフェに入って、日記をつけながらゆっくり待っていたら、僕が乗るはずの飛行機のスケジュールに、こう表示された。

「Delay」

3時間近くの遅延だった。

なんだか、逆に面白くなっちゃったね。

ジャグリングがつなげるもの 欧州ジャグリング紀行2018 memory no.14

 CATCH!フェスティバルは、わざわざ日本人がこのためだけにいくようなフェスティバルでは、なかったかもしれない。フェスティバルの規模は、200人ぐらい。そんなに大きくない。会場もそんなに大きくない小学校を使っている。
 僕がここへ来ることを決めたのは、伝説のジャグラー、「クリス・クレモ」も来ると聞いていたからである。ジャグリングを始めた頃から彼のジャグリングビデオは見ていて、実際に会うのがとても楽しみだった。
 さて、初日のイベントは、オープンステージ。始まる前、参加者は、狭いロビーで待機していた。僕はジャグリングをしながら待っていた。
 すると一つボールを落としてしまい、ヨレヨレのコートを着たおじいさんの元に転がって行った。その人はそれを拾ってくれて、うむ、と頷いて、また黙って待っていた。会場が開くと、一緒に待っていたアルットゥと一緒に中に入る。するとそのおじいさんもするっと一緒に入ってきて、隣でみることになった。
 隣に座ると、彼は愛想よくこっちを見て眉をくいっとあげた。どうも見たことのある顔だなぁ、とその時点でも思っていた。

 オープンステージは全部で2時間だったが、途中休憩があった。その時、やはり先ほどの愛想のいいおじいさんが隣に来た。

 思い切って尋ねてみる。
 
「あの、もしかしてクレモさんですか?」
「そうだよ。いやいや、クリスでいいよ」
 そう、そのヨレヨレの服を着たおじいさんは、僕が憧れていたクリス・クレモだったのだ。
 その後も一緒にオープンステージを見て、話をした。
「日本に行ったこともあるよ。1971年と、1989年。」
 僕は一番気になることを聞いてみた。
「まだパフォーマンスの仕事、してるんですか?」
「うん、してるよ。去年も、ヨーロッパ中を回った」

 二日目、彼のワークショップがあったので行った。
 今日も、下はスポーツジャージ、上はヨレヨレのジャケットを着ている。この人が街中で目の前にいても、クリス・クレモだとは絶対気づかないだろう。
 部屋に入ると、彼は「オハヨウゴザイマース」と日本語で言った。
 「ゲンキデスカ?」と聞いてきたので、
 「元気ですよ、あなたは?」と聞くと、ハハハァ、と笑って、肩を抱いてきた。
 クリスは、僕が思っていたような「クリス・クレモ」ではなかったが、「クリス」のことがとても好きになった。