第69回「託す仮想について」

仮想についてたまに考えます。
ハロウィンの吸血鬼とかセントパトリックデイのルイージ。
ではなくて仮想です。イマジネーションについて。

人間は自分の像とはちょっとずれたものをイメージして生きている。
自分をそのまま見たことがある人は誰一人としていない(たぶん)。
だから自分がどう見えているかは、原理的に、「想像するしかない」。

いくらビデオに撮っても、鏡を見ても、だめだ。
人生の大半は、鏡を見ることなく他人と接する時間でできている。
ものを触って認識するのと一緒で、局所的なフィードバックの形でしか認識できない。

(ついでながら、触覚だけの認知が不完全だと思うのなら、視覚も同じように大いに不完全であると言わなければなるまい。触覚によってテーブル全部を一瞬にして認知することはできないし、視覚でも、裏側は見えていないし、どれぐらい重いのかも私たちにはわからない)

他人と接する時、「いったい私はどう見えているんだろう」と思う。
その時、その「自己イメージ」の妄想は人間の形を取っていない時もある。
(そうですよね、たぶん)

必ず何か自分が「見たことのある何か」を想像しながら、行動を起こしている。
つまり私たちはかなり頻繁に「誰か」や「何か」の真似をしているんだと思う。

その一部として、たとえばGIF画像や絵文字で気持ちを伝える時、私たちは結構それに「なりきっている」フシがあるんじゃないかと思う。

考えてみると、不思議だよね。
写真を撮る時にピースをしちゃうとか、たとえば。
それは外国人が本を読んで「なるほど日本ではこうやるのか」と「学ぶ」のと違って、「こういう時には大体こうするもんである」という無数の具体例の自分なりの消化を通して形成されているのである。

他人の行動を自己イメージの基準軸として据えるのである。
あるいは真似することで、あるいは「あえて真似しない」ことで。
この範疇を超えた行動って、あるのだろうか。

言葉の習得についても同じようなことが言える。
別に本を読んで抽象的な解説から学ぶのではなく、天文学的回数の具体的用法を聴くことを通して、自分の行動(この場合、喉の筋肉の動かし方)を決めている。

文=青木直哉


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