第66回「それでも語るなら」

昨日、高校時代よく一緒にジャグリングクラブに行ったり、遊んだりしていた矢田君と、横浜でお酒を飲んだ。
彼はダンスやサーカスについて詳しくて、色々と語りあった。ジャグリングについても語る。
ハッピーアワーから飲み始め、随分長いこと居座っていた。

ジャグリングについて「語る」時の危うさが気になっている。
ジャグリングについて話していて、自分の話と、実際に身の回りにあるジャグリングとで、完全に乖離している感じがしたからである。

たとえばバレエからコンテンポラリーダンス誕生までの歴史については、特に身に違和感を感じることなく話し切れるのだが、(別に自分がやってないからだと思いますが)ジャグリングで、たとえば、今の問題点とか、あげてみて、と言われても、別に何も問題なんてないんじゃないか、という感じがする。だって、楽しいし。

というより、抽象的なレベルになった「ジャグリング」というタームについて、格別語りたいことを持たない。ただ、自分が見ていて面白いものとか、もっと具体的に、ジャグリングを通して出会いたい物事とか、そういうことの方が関心がある。

「ジャグリング」を取り囲む環境の基準は、随分人それぞれであり、そのそれぞれ具合は、たとえば学生のジャグリングしか見たことがない人と、EJCによく行っている人と、アフガニスタンのサーカスジャグラーとで、だいぶ違う。

カラフルな具合がとても楽しいよね、でもいいんじゃないかなあ、と思えてくる。
問題があるとしたら各自の道の中にしか問題はなくて、皆にとっての「ジャグリング」を据えちゃうと、まず「ジャグリングって僕にとってはこれなんだけれど」という地点から、交錯が大きいような気がする。

もちろん、アートとして追求するってどういうことだろう、ということにも十分関心はあるし、平たく言えばインテリジェンスを必要とするジャグリングの議論に関わるのも好きなのだが、私個人のことでいうと、特に問題となるのは、ニュージーランドのジャグラーってどういう感じか、とか単にそういうところが一番である。

ジャグリングについて語るといっても、何も批判的であるだけが能じゃないんだ、というのを改めて確認したかった。
ほどよくデタッチメントして、「ま、色々あるわな」というスタンスからとりあえず適当にスタートするんでも別にいいんじゃないか、と思う。

この絶妙な「語られなさ」「語りにくさ」っていうのは、ジャグリングにおける特殊性ではないか、とも思う。ジャグリングについて語ろうとすると、サーカスの話になっちゃったり、大道芸の話になっちゃったり、しないだろうか。
語り辛さというのは、表現芸術では全部同じかも知れないけれど。

とりあえず、その後矢田君と別のテーブルにいた外国人の方々のもとに行って、ジャグリングを見せて喜ばれたのは、なんとも愉快だった。

文=青木直哉


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