第50回「ふと思ったこと」

インターネットでブログを読んで、「この世は厳しいんだよ」という論調の文章や、「まったく理解していない人が多すぎる」という感じの論調の文章を読む。
その中の論理で言えば、その通りであり、当を得ている。
役に立つ知識を得た気にもなるし、一方で、気が滅入ることもある。

もしや自分がやることなすこと、とんでもなく程度が低いんじゃないかという気分にさせられるのである。
実際、そういう風に思い出すと自分は生ぬるく生きていると言われてもべつに反論できない。

だが考えても見れば、インターネットで何かを目にする、ということは、セレンディピティや利便性という観点でメリットでもある反面、自分が別に触れなくてもいいような文脈に触れてしまっている、というデメリットでもある。

ふとシャワーを浴びていて、たとえばアフリカの子供が、東京で起きている問題を読んで、当面の生活において何か意味があるだろうか、と思った。
自分とは関係のない脈絡の言葉で、今、ただここにいる自分のやる気の芽をしぼまされてしまったとしたら、随分勿体無いことじゃないだろうか。

インターネットでやる気を失わされることは、アフリカの子供が東京のニュースでやる気をしぼまされているくらい、客観的に見てみたら意味のないことのように思えたのだ。

ジョージ・ルーカスが、ファンの失望をあからさまな形で目の当たりにして「インターネットがない頃はよかった」と言った、という話を読んだことがある。

厳しく生きて行く心構えが全然足りていないことよりも、食べているカスタードクリームたい焼きは美味しいという事実や、朝早く起きて気持ちがいいという今の気分の方が、重みがある。

知らない人の早起きの話より、明日早起きしてみればいい。
見知らぬ人が批判をしている話を読むより、自分が行って感じたことをよく考えたい。
自分にとっての厳しさを必死で見つけたい。
インターネットに意味がないのではない。
ただ、相手との距離をはかる手立てが、極端に少ない。

文=青木直哉


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