第48回「ジャグリングにおいて同じ演目をカヴァーすることについて」

カフェにいて、シンディ・ローパーの『Girls Just Want To Have Fun』のカヴァーが流れている。

ジャグリングでは人の演目を真似て演じることがあまりない。
なぜだろう?
代役として演目が再現されることはある。
今日本にいる『トーテム』のコーンジャグリングもそうであろう。
元祖はグレッグ・ケネディですよね。

歌だと、他人がライブで歌ったとしても問題はない。
むしろ喜ばれることの方が多いんじゃないだろうか。
徳永英明の『赤いスイートピー』のカヴァーなんか、私は大好きである。
カヴァーばかりしているアーティストが高評価を受けるわけでもないけれど。

ジャグリングで人の演目を演じると、興行上の必要性などがない限りパロディとしてしか機能しない。
ネタがばれたりすると、「パクリ」との誹りを受けることになる。

たとえばバレエにおける『春の祭典』のような誰もが模倣するピースは、ジャグリングには今のところ無い。
まだ歴史が浅いということかもしれないし、永遠にそういうものは出てこないのかもしれない。

但し見方を変えれば、少なくとも「大道芸」の中に、模倣は多くある。
「現代日本でジャグリングをする大道芸人の芸風」には、一定のスタイルがあると思う。
初めに大道芸でジャグリングをし始めた人たちの名残が脈々と受け継がれているように見える。

もちろん批判したいわけではなくて、そういう傾向がある、ということである。
中身はそれぞれ個性的にやっている方がたくさんいるが、なんとなく、こう始めて、こう終わる、という形式に、型がある。
全ての大道芸人が「良質な古典の模倣」という意識でやっているかどうかは、知らないけれど。

ジャグリングそのものでは「技」という最小単位に古典が集約されていくのかもしれない。
ミルズメス、アルバート、レインボー、台南ジェノサイドetc…。
元祖の人間や集団は、技の呼称や文献にわずかに名前を残したりなどするのみである。

メソッドとしてのもの、たとえばピアノでいうエチュードのような「一連の流れ」にまで昇華したものがあったら便利なんじゃないかと思う。
そういえば昔竜半さんら黎明期の日本のジャグラーが、インターネット上でそういうコンセプトのルーティーンを作ろうとしていたような記憶がある。

ジャグリングにおける羨望の対象が「形式美」ではないから、模倣が流行らないということもできるのかもしれない。定番には重きを置かず、革新性を求めていくことの方が重視される。個性が尊重される。

音楽とパフォーミング・アーツの本質的な違いにもっと大きな理由があるような気もしますが、とりあえずそんなことを思います。
深く熟考した末の文章でもないので単なる議論の端緒にすぎないことをとりあえず明記しておきます。
書いていたらあっという間にコーヒーがなくなってしまった。

文=青木直哉


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