第31回「頭と口リハーサルを観て 身体を使った描きかたのこと」

http://atamatokuchi.com

山村佑理と、渡邉尚。しばらくこの二人を見守ってきて、なんだかこの人たちのことばっかり言っている。実際、そうやって言わせたくなる力がある。
昨日初めて作品を生で観て、改めて衝撃を受けた。この二人の実力は知っていたと思っていたが。

ジャグリングの中では今「作品の作り方」が一定である。
「よし、ジャグリングで何かしよう」と思ったら、まず大体の人が、曲を決める、そして「技」を決める、そういう流れがある。暗黙で了解された慣行がある。しかしそのアプローチに変化をつける動きがもっとあってもいいんだ、と思った。

京都で活動するジャグリングユニットピントクル、丹哲郎、など、果敢に他のアプローチでジャグリングを解釈するような人たちもいる。こういう人たちの活動がもっと注目されてもいいよな、と思った。
こういう人たちが群雄割拠して欲しいな、と思った。

この劇団アカレンガのように、たとえばミュージカルの文脈の中にジャグリングを入れる、というようなこともある。それは既存の「作品の作り方」の範疇にジャグリングを取り入れているだけでもあるが、もちろん、新しいことでもある。
http://www15.plala.or.jp/ACALENGA/

身体を使って「描きたい。」のひとつの形としてのジャグリング、というものが垣間見えた。
そうなるともはや、果たして彼らのやることをジャグリングと呼ぶ必要はないんじゃないかと思った。
あれ、ジャグリングじゃないじゃん、と思う。

そして実際、それでいいのである。

「ジャグリング」という言葉で指し示してきたものは、物を器用に投げる、というようなことでしかなかった。だから「ジャグリング」という言葉で括ろうとするとおかしなことになってしまうのだろう。
そうじゃなくて、ジャグリングをきっかけとして始まった、新しい「描き方」と捉える。

そうか、だから彼らは、「新しい何か」というような言い方をしていたんだな、と、今になって納得がいった。
https://www.youtube.com/watch?v=RQ3HE1qX6Ic

新しい描きかたをするのは大変だ。
自分で、画材から何から全部調達しなければならないからである。
今まで漫画の文化があった中でそれに追随して漫画を描く、中の話の筋だけ変える、というのとわけが違う。
まず「何を描くのか」、次に「どういう風に描くのか」全部自分で決めるのである。

しかし同時にそれは本当に挑戦しがいのあることでもある、とリハーサルを見て思った。血の滲むような努力を重ねた結果得た「自分だけのモチベーションとアプローチ」に裏打ちされた成果物は、教本とインターネットを片手に習得した「演技」とは全く違った、フレッシュな美味しい果実である。


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