月別: 2017年1月

ジャグリングユニット・ピントクル公演 「秘密基地vol.6」レポート

Review on “Himitsu-Kichi Vol.6” by Pintcle

京都のジャグリング集団、ピントクルによるオムニバス公演を、主催のひとり中西みみず君のお誘いで京都まで見に行った。

公演が行われた場所は、京都大学の吉田寮近くにあるスタジオ・ヴァリエ

吉田寮という長い歴史のあるボロ屋(と言ったら失礼なのかもしれないが、たぶんあそこに住んでいる人たちは、むしろそれを誇りにしているのではあるまいか)を少し先に行くと、そのスタジオはある。

静かな住宅街にある、小さな構えの小屋だが設備は本格的。建物の佇まいにも魅力があって、ここは劇場です、と言われなければそんなことに気がつかずに通り過ぎてしまいそうな、主張の少ないこじんまりとした劇場である。

(photo=Naoya Aoki)

2016年12月10、11日、全3回の公演。8組の演者が出演した。

司会はジャグリング・ストーリー・プロジェクト(ジャグリングと演劇を組み合わせる試みを行っている)にも関わったことのある、冨迫晴紀さん。(以下の舞台の写真も冨迫さんによるもの)夜行バスで前日から京都入りし、京大近くの進々堂という素敵なカフェで一通り仕事を終え、仕込みの途中から密に観覧。

1.中西みみずと愉快な仲間たち ver.3 「らいん」

舞台の左右にそれぞれ大きな輪があり、それがレールで繋がれている。輪の中には携帯電話。舞台奥にはCDプレイヤーが乗ったテーブル。

作品のタイトルは「らいん」である。タイトル通り、SNSのLINEが活用されている。電子的なメッセージのやりとりを、プラレールの往復に置き換えて非常に冗長に見せる。

舞台で行われる物体操作は、輪の傍に座った男女(じょさいさん、いとたさん)が、プラレールが来る度に、その上に載せられたスマートフォンを手元のものと交換する、というただそれだけ。壁には、スマートフォンの画面が投影されている。

途中、メッセージの内容を読み上げる音声が演者の足元のスピーカーから流れる。同じように途中からCDプレーヤーの方からも流される。

しかしその音声と画面、モノレールの操作がだんだんズレていく。

プラレールの走行音が静かに響く空間と、冗長な間がそのメッセージの中身のなさを強調しているようでもある。

終盤に差し掛かると、文字を乗せたプラレールが舞台奥を走り始める。

最後に、いとたさんがすぐそこにいるじょさいさんに向かって初めて発話し、暗転して終わり。

日常的に行っている意味のないやりとりをわざと誇張しているようである。でもこの演技には、別にそれを揶揄したり、皮肉に見せたりといった、教条的な演出は無い。どちらかというと、ただそのモチーフで遊んでいるだけ。

あとで中西君に聞くと、音声と画面のズレは、意図的に創出しているものだったという。しかし初めて今回の演技を観る方からすると、その意図が多くの人に技術的な失敗に見えてしまったと思う。その微妙な加減は、難しいのだとは思うのだが。なにはともあれ、「ズレているのって面白いとおもう」とは本人の談。

核としての、「プラレールの緩慢な動きとSNSのインスタントなメッセージのやりとりのコントラスト」はとても面白かった。

中西みみずの舞台は以前にも観たことがある。いつもその佇まいには「洗練されていなさ」がつきまとっている。

映画監督ティム・バートンの展覧会に行った時、レストランの紙ナプキンに描いた落書きが展示されていた。他にも素晴らしい展示はいっぱいあったのだが、筆者はその紙ナプキンの絵の荒さに、ティム・バートン本人の素に一番近い姿を観たような気がして、息遣いを感じ、親近感を覚えて、結局その紙ナプキンが一番気に入った。

東京で行われた前回の『Crossing』でもそうだったが、舞台に立つ時に力が全然入っていない中西みみず君の様子や、ちょっといい加減な舞台セットは、これはこれでいいのかもしれない、と思わせる力がある。

今回の演技は、秘密基地と名付けられた、希望する人がほぼ誰でも参加できる実験的な舞台における発表だった。当演目は、その雰囲気にとても似合ったものだった。これがもっと大きな舞台の遡上に乗るかどうかは別問題だが、別に「大きい舞台で目立ちたい」のではなく、自分のやりたいことを追っているみみず君の姿勢は、なかなか素敵なのである。いや、本当は大きい舞台にも立ちたいのかもしれないけど…。

「メディアとしてのジャグリングを追求したい」と日頃から言う中西みみずの意図は、本公演でも表れていたと思う。ジャグリングそのもの、ではなくて、ジャグリングをなにかを伝える媒体として用いる(だから伝えたいことの比重が、「なにか」の方にある)という程度の意味だろうか。

演技が終わったあとのアフタートークでは、ジャグリングでは、ボールの『交換』が行なわれていて、その『交換』がモチーフになっている、というようなことを喋っていた。

終演後に演出の中西みみず自身が書いた記事はこちら

 

2.吉安勇人 「たわむれ」

デビルスティックを使った演技。

従来のデビルスティックの使いかたに縛られることなく、一本の太めの棒と、それ以外のゴムで覆われた細い二本の棒、という前提だけを用意して、何ができるかを見せた。つまり既存の体系を無視してデビルスティックと純粋に「たわむれ」ているだけの様子を見せたのである。

ただ、たわむれるといってもランダムに遊ぶだけではなく、むしろ「技」として動きを行うことの方が多かった。今までにない、足や口を使ったり、地面に置いたりする類の動き。

ジャグリングの道具は「目的」に沿ってデザインされてきた。その殻を破ろうとする試みはいくつもある。(シガーボックスでトスジャグリングをするとか)だがその試みを見るたび「それだったらこの道具の形をしている必要はないんじゃないか」と思うことは多い。

今回の吉安さんの演技は、光る技が多々あり、従来の動きとは別の動きを模索したい、という試みの意図がよく伝わってきた。しかし棒と向き合う、ということだけを考えるなら、どうせならもっとなんの変哲もない、ただの棒の方がよりよいのではないか、という気がした。本当に、ただの木の枝とか。鉄パイプとか。ラップの芯とか。わからないけど。

この演目においては、デビルスティックの形をしていて、プリズムの装飾をされていることが邪魔な要素に思えた。きらびやかなデビルスティックが、吉安さんの野性的な動きの質感にあまりマッチしていてないように映った。

使う道具がデビルスティックの形をしていることのメリットがあるとしたら、それは「デビルスティックをやっている人が驚く」ということだろう。それは、デビルスティックをやっている人にとっては悪いことではないけど、いざ「ただの棒として扱う」のならば、なくてもいい要素である。

たとえばこれは、ディアボロでコンタクトジャグリングをすることの違和感に似ている。いや、自分自身でもやることはあるのだが、やはりもともとディアボロはディアボロらしい動きをするためにデザインされているので、別にやりやすくもないし、これをどこまで突き詰めても、所詮あくまで、「ディアボロの文脈におけるエッセンス」にとどまるだけで、根本的に新しい、ということにはならない。もし新しい面白いディアボロジャグリングが見つかったとしたら、そのときはもう違う道具としてデザインしなおした方がいいんじゃないか、と思うのである。もしその新しいジャグリングを既存のディアボロで見せているとしたら、それは自分が見つけたジャグリングの追求への怠慢ではないか、という気がしてしまうのだ。

もちろん、そこで実際にただの棒の追求を始める、というのは、それはそれで大変であるのもわかる。ただの棒がすごく見えるだけの技術体系を自分で一から確立しなければならないからだ。だから、そこまで「根本的に新しいジャグリング」を希求しているのではないのならば、まぁデビルスティックやディアボロでやればいいのかな、と思う。

なにはともあれ、とりあえず手近にあるジャグリング道具で心に浮かぶアイデアを試すのは、自然な流れである。制約の中から飛び出したい、と思ってまずは既存の道具であれこれ違う手法を試す。もし本気でそのアプローチを次に進めるとなると、道具の形状を変えていくことになる。「デビルスティックの形状であることが、ジャグリングの演技であることを担保している」ということになってくると、それはちょっと力が弱い。

あくまでジャグラーのコミュニティの中で驚いてもらうのでよければ、既存の道具をそのまま使うのも一向に構わない。筆者個人としては、今回の吉安さんの演技は、ちょっと、ダイエット・コークみたいな物足りなさを感じた。「ただの棒と戯れる」というふうに純化したいのであれば、棒ももっと単純であって欲しい、よりピュアなものであって欲しいという感想だった。ストイックすぎるかなぁ。

第一回公演のあとに行った「棒で遊ぼう」というワークショップでは、とりあえずデビルスティックへの固定観念をリセットしてただの棒として扱ってみて、何ができるかを自由に実験した。デビルスティックの機能性を全く無視して扱ってみる、というのは可笑しくてとてもよかったです。

 

3.姫島知樹 『音とたま』

3ボールジャグリングと、クリスタルボールの演技。ダンスが織り交ぜられている。最近言われるところの、「ダグル」の演技。特に真新しくはなかったが、ひとつひとつの技がうまかった。音をしっかり取れていて、実はこれはジャグラーの中では珍しい。終わったあとに話を聞いたら、ジャグリングから入って、のちにダンスを始め、今は二つを融合したスタイルでやっているそう。やっぱり、ダンスをしっかり学んで、その上で取り入れている人は、動きが違いますね。

見ていて心地のいい動きが多かったです。

JJS(ジャグリング・ジャム・セッション)にも出てみたい、とのこと。いつかJJSの舞台に現れることを期待しています。

 

4.田寺志帆 「禁断の。」

ピントクル代表・山下耕平君の演出作品。

ある日祭りで太鼓叩きを見て、それが格別うまかったわけではないのだが、「その場にいる人ではなくて、神に向かって何かを行っている」という状態をすごくかっこいい、と思ったという経験をもとに作ったのだという。

ジャグリングと儀式をくっつけてしまおうという試みは、筆者の目にはそこまで親和性があるとは思えないのだけど、こんなことをする人は今のところ山下君ぐらいで、真剣にそのアイデアに取り組んでいるのが愉快である。

内容は、そのまま、ジャグリングを織り込んだ「儀式」。

巫女さんの服を着たらっしーさんが、ジャグリングボールと様々な色の帯を使ってジャグリングをしつつ、鈴を鳴らしながら儀式を執り行う。

まず初めに帯のついたボールを投げて、絡まった帯が取れるまでカスケードをする。次第に帯とボールを織り交ぜたアクションに移って行き、最後は帯で全てのジャグリングボールを包んで、それを抱きかかえるシーンで終わる。精子の象徴のような、尾ひれのついた球を投げる演出や、音少なに静かに流れる時間などから、タルコフスキーの映画『ストーカー』を連想させた。

ジャグリングボールは、巫女さんの衣装や、醸し出そうとしている厳かな空気に似つかわしくないような気がした。ジャグリングボールはやっぱりジャグリングのためにある、という事実を時折思い出させてしまう。それに連なって、「ジャグラーの普段の姿」がふと連想される。

でも今、山下君の気持ちになって、「なんとかジャグリングを儀式にしたい」と思って演出をいちから考えるところを想像してみたんですが、うーむ、難しいですね。だったらもう、「太鼓叩きはあれは違うタイプのジャグリングなんだ」と宣言するだけの方が楽なんじゃないか、とか思ってしまう。どこまで行っても、儀式をいじってしまうと、それはもう儀式じゃないような気がしてしまう。

ジャグリングは普通「お客さんに見せるもの」だという観念を崩す、というのはなにかもっと探れそうだ。ただそれを結局「よし、お客さんに見せるものじゃないものをお客さんに見せよう」と思った時点で、お客さんを意識してしまっているというジレンマがある。動物園で、自然なままの動物を見せる、みたいな。いや、動物園に来てしまった時点で自然じゃないんじゃないか、みたいな。

それはさておき、演技中のらっしーさんのたすき掛けが颯爽としていて、素敵でした。演目をやることになってから練習したらしいですが、なかなかカッコよかったです。

 

5.劇団速度 『寝てる間に死んじゃったらどうしよう』

劇である。

筆者は恥ずかしながらあまり演劇には明るくない。

4人の演者が、舞台袖から出てきたりひっこんだりして、バラバラな文脈でセリフを言い、動き回る。時々演者同士が干渉することもあるのだが、言っていることはあくまでその本人の文脈における発言なので、しっちゃかめっちゃかで、つじつまが合わない。

中盤でおにぎりと玉子焼きが天井から落ちてきて、(本来は豆腐でやる予定だったが散らかり過ぎるのでやめたらしい)しかしそれは特に明確な影響を役者の行動に与えることなく、劇は続行する。最後は一人、死んでしまって台車で運ばれていく。

演出・武内ももさんの言によれば、「食べ物が主役。ジャグリングでは、操作「する人」と「されるもの」がある。この劇はそれを切り離しただけであって、これはジャグリングです」という。(ただこれは発言から読み取った筆者の解釈で、本人が意図するところとは少し違うかもしれない)

劇としては噛み合っていない感じが悪くなかったですが、「ジャグリング」としては、概念的すぎてピンと来なかった。

かつてジェイ・ギリガンというジャグラーが、「ジャグリングは、なにはともあれフィジカルなものだ」(PONTEの紙雑誌第12号より)と言っていた。あまりに概念的すぎるものをジャグリングと呼び出すと、あんまり意味のない探求になってしまう。道具を使わないジャグリング、とか。当人にとってはそれが有意義で面白いこともあるし、無関係なわけじゃないんですが、やっぱり見るほうからしたら、なんらかの物体と身体が「関わる」様をジャグリングと呼びたいです。「関わらない」ことを選択しちゃうと、それはもうジャグリングじゃないだろう、と。

筆者もやっぱりそう思います。もし「関わらない」を選択することが面白いアイデアだったとしたら、よほどよく伝える方法を選ばないと、まぁまず納得はできないだろうと思う。

演じたメンバーの中にはジャグラーがいた。当初ジャグリングをする予定もあったようだが、今回はジャグリングをしていない(その、つまり、一般的な意味で)。

 代表の野村眞人さん(上写真で紫の服の方)によると、この劇団は固定された役割を持たないことを目標にしているそうである。メンバーは、その都度演出家になったり役者になったりするそうだ。一般的な演劇のように、演出家が作り上げた、その人の演劇、ではなく、その時創作に関わったメンバー全員の作品である、と言えることが理想らしい。

演劇の中でもやはり行き詰まりがあって、いろいろ模索をしている人がいるのだ、ということを肌で感じられたのがよかった。

 

6.尾納宗仁

「イナーシャ」というタイトルで、主にスカーフ(ヴェール)ジャグリングを披露。ヴェールに包んだボールを投げることで、ヴェールがたなびく様子を見せる。

最後はヴェールポイ(という名称で合ってるんでしょうか)をやって終わり。

ポイにくくりつけられた状態でヴェールがたなびく、というアイデアはあるが、意外とボールに尾ひれがついているという形は見ない、というので、それを提示したようです。

確かに、言われてみればボールがひらひらとする、というのはあまり見ない。邪魔ですからね。ボールをヴェールにぶつけて、火の玉のような印象に一瞬で変える演出は、発展しそうな予感。全体の感想で言えば、もう少し動きのバリエーションをみたかった、というのと、最後のポイが結局一番きれいでよかったわりに、一瞬で終わってしまった、というところが残念な部分。でも、アイデア自体はもっと広がりそうな気がした。

7.うずっきー

ジャグラー、うずとぬっきーによるパフォーマンス。

うず君がぬっきー君の部屋に遊びに来て繰り広げる寸劇から始まる。舞台セットは、パソコンと、本、ゴミ箱。PONTEも置いてあった。どうも、どうも。

寸劇をしつつ、ジャグリングもする。だんだんとジャグリングだけの演技に移行していく。音楽に合わせたジャグリングのみのデュオの演技の後半は、二人の技術が光った。とくに実験的、という感じではなくて、明るく楽しい感じの、笑える演技であった。秘密基地というイベントの目標も、小劇場でどんなジャグリングを体験できるのか、ということの実験であるというので、堅いこといわず、こういう演技があっていいのだな、という感じ。

漫画の台詞を読み上げるうず君の声がやたらに良くて、感心した。

ぬっきー君も、とても存在感がありました。

8.ジャグリングドラゴン ヒョウガ 「落ちモノ」

ヒョウガ君の演技は今までに何度か見たことがあって、やはり今回もいつものテトリスと、ボールをレールに沿って転がす演目。秘密基地での公演ですが、別にてらいはなく、楽しく見られました。

筆者がジャグリングを始めた頃(2006年)は、自分で思いついたジャグリングを「一応は形にしようとする」人が多かったような気がする。いや、どうなんだろう。インスタグラムのように、その場で断片を公開するようなことはできず、発表の場が少ないものだから、人に見せる頃にはそれなりに形が出来上がっているというか。

黎明期から活躍するヒョウガ君はまさにその「形になったものをきちんと見せる」タイプで、懐かしさがこみ上げてきた。昔はインスピレーションが限られていた分、ひとつのテーマに集中できた、ということもあるかもしれない。

テトリスでシガーボックスをするネタは、やはりいつ見ても最後までぬかりのない演出に満足感を覚えます。

秘密基地という公演は、小劇場でやることに主眼があるだけで、あとはわりとなんでもよいのだな、と今まで持っていた「バリバリのアングラ」というイメージを修正することとなった。

初めに聞いたときは、なぜヒョウガ君が秘密基地に出るんだろう、と思ったのだけど、(いや、確かに他に類を見ないタイプのジャグリングなのだけど、アングラ感は全くないので…)合点がいきました。想像していたより明るいイベントだったんですね。勝手に暗いイベントだと思っていてごめんなさい。

大道芸やインターネット上のような、目に付きやすい土俵にある「ジャグリング」があって、その一方で、個人の力ではなかなか実現までこぎつけづらい、「小劇場での発表」という形態がある。秘密基地は、うまくいこうがいくまいが、とにかく実際に劇場で淡々とジャグリングを実践している。

主催の山下君によれば、今回の公演では、事前に自分から「ぜひ出たい」と申し出る人が多かったとのこと。やっぱり、それなりにちゃんとした定期的な発表場所があるというのは、ジャグラーにとって、とてもありがたいのですね。

さて、個人的には何が一番よかったかというと、彼らの「ちょっとゆるい雰囲気」です。小劇場でやっていて、別にその公演が失敗したから大変なことになる、というわけでもないので、みんな好き勝手に、プレッシャーを感じず、見せたいものを見せている感じが、とてもよかった。仕込みや片付けの最中の居心地もよかったです。(ダンスをみんなで練習したりなど)

日本のジャグリングシーンにおいて、貴重な「場」だと思います。

次回があれば、また観に行きたい。…進々堂にもまた行きたい。

(photo= Naoya Aoki)

関連リンク

・ジャグリングユニット・ピントクル HP/Twitter

プラレールジャグリングの可能性 by 中西みみず

text= Naoya Aoki

Photos= Haruki Tomisako (except for the first and the last one with credit)

2017/01/14 記事冒頭の冨迫さんに関する情報を訂正しました。

第14号発売延期のお知らせ

PONTEのホームページをご覧のみなさま、あけましておめでとうございます。

さて、早速よくないお知らせで申し訳ないのですが、前号第13号の巻末におきまして、

「2017年1月11 日発売予定」とあった第14号ですが、発売を少々延期いたします。

お待ちいただいている皆様をがっかりさせてしまい申し訳ありません。

なるべく早く発刊にこぎつけるよう、努力しております。

発売の見通しが立ち次第、当サイトとツイッターでお知らせいたします。

2017年も、PONTEをよろしくお願いいたします。

書くジャグリングの雑誌:PONTE 編集長 青木直哉