月別: 2016年4月

第89回「4ボール(クラブ)カスケード?」

「プラスチック・マインド」という、磁石の入ったクラブの動画で話題になったアメロンさんが、
オブジェクトエピソードで偶数のオブジェクトのカスケードについてのスレッドを立てています。

スレッド
http://objectepisodes.com/t/even-number-cascades/277

「プラスチック・マインド」
https://www.youtube.com/watch?v=D-7jWiCbuvM

4ボールカスケードのイメージはこちら

あくまで一般的な意味で言うと、カスケード(ボールが違う手の方に投げられる、サイトスワップは奇数)が可能なのは奇数個のボールに限った話で、偶数だと基礎パターンはファウンテンになってしまいます。
しかしこうやって見た目を見てみると、4つでもほとんどカスケードのようにも見えます。

ジャグリングをする方の都合からすると、これはカスケードではない。
けどもしこれを何も知らない人が見たら、3つでやっていることを4つに増やした、という感じだろうし、下手をしたら、5個ともあんまり区別がつかないんじゃないか、という気もします。

そういえば、ジャグリングを始めた頃、4ボールファウンテンを見て、まさか片手で二個ずつ別々に投げているなんて思わなかった。はっきり言って、まず「ボールをジャグリングする」という行為に、幅があるなんて思わない。
ジャグリングはジャグリングだろう、持っているボールを全部空中に放り上げるんだろう、くらいの認識だったような気もします。

そんなことを考えました。

文=青木直哉

第88回「未熟だから飛び込むこと」

WJFのジェイソン・ガーフィールドが、映像でちょっといいことを言っていました。
フェイスブックで流れてきたのですが、大まかにまとめるとこういう感じ。
(FBにのビデオにリンクを貼るのが好きではないので、控えておきます、見づらいし)

「WJFに行くことをためらっている人に聞いてほしい。確かにWJFには、世界で一番うまいジャグラーたちが集まっている。それは事実だ。でも考えてみてくれ。スポーツジムに行ったら、確かにいい体つきの人がいっぱいいるけど、君がジムに通うのは、まさしく、『君がいい体つきじゃないから』だろう?それと同じで、WJFは、ジャグリングが上手くなるためのワークショップや、機会を提供しているんだ。だから、君が下手なら、それはいいことだ。もっと上手くなることができるからね」

WJFに限らず、新しいところに飛び込むのはなかなか緊張するし、ためらわれるものですが、実際そこに人が集まっているのは、その世界で自分を「その環境に合った自分にしていく」ためであって、決して「すでにその環境に合った自分だから」行くというわけではない。これはだいたいにおいて言えることだと思う。

もちろん入門の時点ですでに優れているのならそれに越したことはないですが、ヒヨッコだけど、憧れてその世界に入っていく、というのは、どこかの段階で必ず踏むステップであるのだし、それにためらう必要はない。

EJCも「ジャグリングが上手くなきゃ行っちゃいけないんじゃないか」「英語が話せないと行っちゃいけないんじゃないか」とか、いろいろ憂慮はあると思いますが、そういう異文化に入る時も一緒で、結局誰しも、どこかで「えいっ」と、茂木健一郎氏の言葉を借りれば、「偶有性の海に飛び込む瞬間」があるわけで、そんなのは、早いなら早いほうがいい。
輪に入っちゃえば、こっちのものです。

文=青木直哉

第87回「身体を認識することとジャグリングについて」

村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を今更になって読んでいる。
いろいろと読む本はあるのだけど、文章を書くのが仕事だ、とか豪語しておきながら、全然、最低限要求されるだけけの本すらも読んでいないので(一週間に2,3冊が関の山である)もっとコンスタントに読もうと努めている。

暗闇の中で、だんだん自分が認識できなくなる話が書いてあった。
そこで私はふっと、自分がジャグリングをしている時の状態を重ねた。

主人公のオカダトオルは、井戸の底に降りて、暗闇の中でだんだん自分というものが曖昧になっていく。
もちろんこれはよくある話で、哲学の基礎というか(だからといって易しいわけではないけど)「自分自身」というものの意外なほどの不在、不確かさを語っている。

自分の身体が見えずどこにも触れないと、「身体なんかない」状態と峻別できなくなってくる。
薄く水を張った暗闇のカプセルの中で瞑想をするみたいなのも流行っているらしいが、その中で体験する不思議な感じもこういう感覚に近いだろう。
バイリンガルニュースで聴いたけど、馴れてくると、自分で身体の感覚をオンオフできるようになったりするらしいですよ。

禅の経験とかにも、それに近いものはあるのだろうと思う。
座禅をし続けて、無我に至る(というのが正しい解釈なのか寡聞にして知らないのだけど)こととも似ているだろう。

それで逆に、ジャグリングをしている状態というのを自分でよく観察してみると、(よく見る、とかそういうアホな意味ではなくて、省察する、という意味ですよもちろん)どうも運動を物体に伝えることを通して、自分の輪郭を測っているような節はあるんじゃないかな、と思えてきた。

しかしさらに考えを進めてみると、ジャグリングにとにかく無我夢中になっていると、ふっ、と「あれ、今ジャグリングをしているこの主体は一体誰なんだろう」と、自分を客観的に見ているような気分になる時が本当に時々だけど、ある。

だんだん、ジャグリングボールという「異物」を動かしている自分自身、という『状況』が、今度は自分自身になってきて、ジャグリングをしている自分とジャグリング自体が不可分になってくるのではないだろうか。ある程度ジャグリングをやったことのある人なら感じたことがあるだろう。

それって、人間にとっては、結構普遍的な現象なのかもしれない。
たとえば義足や義手、人工的に作られた身体の一部が自然と自分自身と同化していくこととも似ている。
自分の服に触られるだけで、肉体でもないのに自分を触られたかのように感じることとも関係があるだろう。

自分がいましがた脱いだ服にも、自分自身の残り香が(実際に匂いも残っているだろうし、もっと抽象的な意味でも、動く存在の余韻が)残っている。それと同じことは、ジャグリングでも言える。
自分がローンチしたボールは、服と同じぐらいには「自分っぽい」ものになっている。

『ミスティック・ボール』という映画で知ったのだが、ミャンマーの国技チンロンでは、複数人が一緒になってひとつのボールを追っているうちにだんだん「ジャーナ」という、全員がひとつの有機体であるかのような感覚になることがあるのだという。
あるいは、そういう風に、他人と自分までが不可分になってしまうこともあるのだろう。

文=青木直哉

第86回「デフラクトについて」

カンパニー、デフラクトがJJFの今年のゲストに決まった。
今回来るのは、エリックとギヨームの二人。
デフラクトは、メンバーが決まっているわけではなく、演目によって違う人が出ていたりする。
ながめくらしつと一緒である。

「カンパニー」という概念も、たぶんわからない人はわからないかもしれない。
なんか、いつか詳しく説明したほうがいいのかもしれない。
まぁ、とりあえず、同じような趣向を持った人たちの集団ですね。

特に今回の演目「フラーク」は、すごく面白い。
思いっきりハイスキルなジャグリングをする姿を見るのが好きな人には物足りないかもしれない。
しかしこのフラークは別の意味で「思いっきり」ジャグリングをする姿である。

あまりスポイルしたくないので詳細は控えておくけど、とにかく、単純な動作を、「しつこいほど」繰り返すことで生まれる質感というものが、この演目では重要な鍵を握っている。
何回もアンダーラインを引きすぎるのである。
「まだやるかねぇ」という呆れが、だんだん可笑しくなってくる。
本当にしつこいほど繰り返すのは、突き抜けるとそれはそれで面白くなるんだと思った。

この二人はもともと知っていたが、フラークは去年のEJCで見た。
暑いテントの中で、じーっと演技を始まるのを待ってる時間、最高だったな。
そして始まると、その実に「奔放な」ジャグリングに熱狂したものである。

果たして日本のレギュレーションが厳しい劇場で、同じようなことできんのかね、という感じだが、なんにしてもどのようになるのか非常に楽しみである。
また、JJFの観客がどのような反応をするのかにも、興味がある。

日本の少し凝り固まってきたジャグリングの世界において、大暴れするフランス人ジャグラーたちの衝撃は、広がりを見せるジャグリングの世界でまた一つ、面白い波紋を呼ぶかもしれない。

文=青木直哉

第85回「どういう態度でジャグリングをするか」

ジェイ・ギリガンは、ニュージーランドのサーカスフェスティバルでこんな話をしてくれた。

「僕がジャグリングをアメリカで習った頃、まずカスケードができるようになって、それから、『はい、じゃあ笑って!』と言われたんだよ」
ジャグリングと笑顔の結びつき。
ジャグリングを果たして笑顔でやる必要があるのか。
ジェイは、ピエロが持つ技術、というような形で捉えられていたジャグリングに違和感があった。
ジャグリングをしながら笑うと、どういうことが起きるか。
無表情でやっている状態と笑顔でやっている状態を比べると、笑顔の場合では「わたしは今楽しいことをしてるんだよ」というメッセージが込められる。
しかしジャグリングをしている最中にそういう笑顔を強制するとしたら、それは「ジャグリングは楽しく見せられるべきものだ」という考えがその根底にあることになる。
だがそれは偏ったイデオロギーだ。
ジェイのジャグリングの質感は、そういうところからも影響を受けている。
でもそういえば、そういう点に関して、つまり「どういう態度でジャグリングをするか」ということの議論って、しているようであまりしていない気がする。
サーカス学校などで何かしら教えを受けていたり、演劇など他の分野にも通じている人はそうでもないのかもしれないが。
なんにしてもジャグリングにその議論が本格的に持ち込まれることは少ない。技術の方にばかり論点が行きがちだ。自分で楽しんでいる分にはそれでいい。だだいざ人前に出ようとした時に困る。あるいは、人前に出ないのならばわざわざ笑顔を作る必要がない、ということへの言葉のアプローチができない。
「ジャグリングする時、笑顔でやることの意味とは何か」問題の登場である。

文=青木直哉

第82回「久々にWJFの映像を見ていて思ったこと」

Facebookでたまたま流れてきたので、なんとなくWJFの映像を見た。
WJFと言えば、スポーツジャグリングの路線を貫く大会だ。より多く、よりトリッキーに投げるのが正義。
ジャグリングを始めた当初は、憧れの目でよく見たものである。

勿論今でもすごいな、と思っている。
だが特にジャグリングを始めた頃というのは「上」の方ばかり見てしまうもので、その時は「わぁ、多い!」で、もうびっくりするのである。
実際、自分がそんなに投げられる状況を想像すれば、気持ちも昂ぶる。

最近はジャグリングの方向性も多様化してきて、ジャグラーが出会うジャグリングの様相が雑多であるのもあってか、単純に数の多いジャグリングがもたらす喜びを忘れていた。5クラブバッククロスを大勢がやっている様子とか、10リングとか、見ていると、「これもいいなぁ」と思うものである。

ジャグリングはスポーツだ!
と割り切って考えるのって、すごく清々しいよねぇ。

目標が見えやすくて、見ていても実力の差がわかりやすい世界というのもまた、おおいに面白い世界だと思う。

それを今一度確かめて、改めて「それだけじゃない」ということが浮き彫りになる。