月別: 2016年2月

第57回「ツイッターの性格と僕個人の性格について」

このところずっと、少し長い文章を一度書いてしまってから、それを崩し崩しツイッターに載っけていたのだけど、どうもツイッターというメディアの性格にあっていないんじゃないかとふと思った。そしてかつ大事なことに、ツイッターの性格は自分に合っていないんじゃないかとも思う。
どうも、推敲している時間がない、というのがあまり好きではない。だったら推敲するメディアに移ればいいのだけれども、まぁ、毎日やる、と言ってやり始めたので、とりあえず続けて行こうとは思っている。しかし、なんだかこのスピード感を本当に自分は必要としているのだろうか、と思う。
実際、考える速度がとてつもなく速い人、またはそういう精神状態にあっては(まれにある)ツイッターの歯切れはちょうどいいのだけど、ひとたび深く考えたい、という時にあっては、ツイッターの速度では全く捉えきれないものについてばかり考えが及ぶので、ちょっと、住み分けが難しい。
これはおそらく私自身の使い方に難があるというか、そういう面もあるとは思うのだけど、一部的な理由として、性格の不一致というのか、じっくり腰を据えて文章を書く時間が欲しい、と思っている時に、ツイッターに気持ちが向いてしまうのが、のどのあたりがむずむずするような気分なのである。

文=青木直哉

第57回「SNSは、精神にとってのタバコである」

インターネットの弊害についてはもうつとに言われていることである。

私個人、インターネットにつながれていること、特にSNSにつながれていることに、とても害があると最近やたらと感じる。
精神的な涵養を阻害するための劇薬のようにすら思う。
SNSは、精神にとってのタバコであると言って差し支えないだろう。
ここ三日くらい、図書館に立てこもって、卒論を書いた時のように机にへばりついていたら、インターネットの無い生活って、なんて素敵なんだろう、と思った。
自分の頭の中にあるリソースで、鈍行列車の速度で頑張って考え抜く、という行為に、至上の喜びを覚えた。
インターネットは、思考にとってのリニアモーターカーだ。本当の旅の醍醐味なんて一向に訪れない。
遠くにいる友達を大事に想うことも無くなったし、自分の好きだと思った本の著者を忘れることにも危機感は無くなった。
たどり着きたい、という目的地を思い浮かべた瞬間、そこについて、終わりである。
旅の道中で出会うものも何もあったもんではない。

もうインターネットがない時代には戻れないし、こういうことを今ネット上で発表する自分にものすごくアンビヴァレントな感情を抱くわけだけれども、だがしかし、大事なことは依然大事なことである。

ちゃんと身体を、特に精神を時々SNSから解放してあげないと、ろくなことがない。
それは大いなる魂の救済である、と半ば本気で思った。
オレは死ぬときに「ああ、フェイスブックで1000人友達ができてよかったな」と思いながら死んでいくのか。
それで「自分が分からないことに対してどうアプローチするか」ということを考えた。
「わからないから自分で考える」というのは、あらゆる局面においてものすごく素敵なんだ、と思う。

ある友達が、遠くで何をしているかわからない。だからその人のことを想像する。 ある問題があって、それについて考える。それこそが問題意識と向き合うということだ。インターネットで仔細に何があったかを知ること自体にはなんら意味はない。大事なのはそこから先の話である。

喫煙について文句を言うのもいいが、SNSについてもっと節操を持たねばならない。集中をいかに阻害されているかは火を見るよりあきらかだし、電車の中で全員が小さな画面に向かって一心不乱に何かをしているのを見て、「おっ、皆、生産的な時間を過ごしているなぁ」と思うことも無い。
文=青木直哉

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第56回「『ソーシャル・ネットワーク』」

映画『ソーシャル・ネットワーク』を、DVDで借りてきてMacで見た。非常に好かった。

好いと思ったのはマーク・ザッカーバーグ役の俳優の目。
それと、エドゥアルドがマックを机に叩きつけるシーン。
かたいシルバーの躯体を、思い切りテーブルの角に垂直降下させるのは、さぞ手に心地よかっただろうなぁと思う。

映像はもう見慣れてしまって、見ている間はあまり考えないけれども、俳優が味わっている匂いや味や触覚を、一生懸命想像してみると、まったく違う味わいが生まれる。
子供の頃はそういう見方をしていたんじゃないかなぁという気もする。

身体感覚に根ざして映画を見てみると、面白い。
そういうジャグリングの見方も、たぶん面白い。

文=青木直哉

第55回「ケ・セラ・セラ」

文章が書けなくなる時がある、というのを聞いていたことはあったけど、実際に自分の身に訪れたことはなかった。いや、正確に言うともちろんあったが、意識したことはあまりなかった。
それが、今自分に訪れたような気がする。

この第55回を書くのに、朝から5回分くらい文章を書いては消したのだけど、全く、書けば書くほど、どうしようもないものを書いているような気がして、滅入ってしまう。
何を書いても、先達の足元にも及ばないんだ、と思ってしまう。

大学生の頃お世話になった教授の著書の中で、椎名誠が「自分について書け」と言われて、5時間ほどうんうんと唸って、次の日もうんうん、と唸って考えるのだけれど、何も出てこずに、ふっと、そうか、俺は、自分について書くのが嫌なのだ、と悟って、それが自分なのだ、と気づくという話がある。

避けるべきものが明確に自分の中にあればあるほど、それだけ悪いものを書く可能性は(おそらく)減っていく。(たとえば私は、世界中、好きなところに好きなだけ、何度でも行ける航空券をあげるよ、と言われても絶対に「w」などというものを笑いの意味として使わない)

いいものを真似することや、自分が嫌いなことも含めてたくさんの他人が残した成果を吸収することはとても勉強になるけれど、それを批判的にとらえようとすると、もう、本当に、にっちもさっちもいかなくなってしまうのである。

けれども、実際には、それを越えていかなければならない。

関係ないですが、ドリス・デイはまだご存命らしいですよ。

文=青木直哉

第54回「イチローとアジアの屋台の人」

テレビ番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』の、イチローを特集した回を観た。
彼は毎日こなすことや、食べるものまで、全てが決まっている。
集中する時は別に意識しなくても勝手に切り替えができる、という。

イチローは、人のバットや、グローブには絶対に触らないのだとも言う。
マリナーズ時代のチームメイト城島によると「手にその重さだったり形だったりが残るのが嫌」なんだそうだ。

プロフェッショナル 仕事の流儀 – イチロー・スペシャル
「感覚が残ってしまうから」は 8:40あたり

よくFacebookで、どこかの国の(アジアが比較的多い)屋台のお兄さんやおじさん、お姉さんおばさんが鮮やかな手付きで食材を調理していく様子や、お土産を秒速で袋詰めする様子、郵便受けに猛スピードでチラシを入れていく様子などを見る。

別にイチローとは、なにも実質的な接点はない。
だがイチローと、厨房でモチを放り投げて渡すどこかの商店街の兄ちゃんを頭の中で並べてみると、なんだか、この二人は仲良くなれるんじゃないか、とか勝手に思ったりするのである。

文=青木直哉

第53回「演技について少し思ったこと」

桜木町の街を歩きながら、アメリカのジャグラー、ダン・ホルツマンがホスティングをするポッドキャスト、”Drop Everything”で 、Thom Wall(トム・ウォール)が出てくる回を聞いていた。

Thom Wall on Drop Everything with host Dan Holzman
https://itunes.apple.com/il/podcast/drop-everything-dan-holzman/id1063204159?mt=2

トム・ウォールは、現在来日中のジャグラー。
シルク・ドゥ・ソレイユのTotemに出演している。(別のジャグラーと二人で同じ演目を担当している)ジャグラーTOP40にもよくランクインする、人気のジャグラーである。公式ページを見ると、Totemに出るのは2月中だけのようですが。

ポッドキャストの中で彼(とダン・ホルツマン)が、レセプションパーティなどの場でジャグリングだけやっても、人の注意を引きつけることができないんですよねと、言っていた。
そこでトムは代わりに、ワインボトルを頭に乗っけて会場を歩きまわることから始めるようにした、という。

ははぁ、と、そこで演技について考えた。
「私を見てもらうにはどうしたらいいか?」という考えが加わると、「誰に見てもらいたいのか」「本当は何を見てもらいたいのか」というような視点が加わる。
そのあたりから考え始めてみるのは、演じる側にとっても好都合なような気がしたのである。

彼のブログで、いくつか演技を作るためのメソッドが紹介されていて、これが非常に面白かった。
技のための技への欲求で凝り固まってしまう“Juggler brain”について、どうほぐしていくかの言及もあります。
http://thomwall.com/act-creation-method-3-the-pixar-method/

文=青木直哉

第52回「鏡かビデオか人か」

たとえば演技を作るときに、フィードバックを得るには色々と方法がある。

他の人のことはよく知らないけど、私はビデオを撮ったり、鏡を見ながら行うのが普通である。

昨日練習していて、少し、一緒に練習している仲間に見てもらった。
見てもらいながら、自分でも考えて意見を述べ、どう思うか、聞いてみる。
なんだかとても楽しかった。

鏡の方を向いているとできない動作もある。
細かい挙動の誤差にまで、結果が左右されるということも教えてくれる。
ジャグリングといえど、身体を提示している以上、そこに舞踊的な、厳密さもまた求められ得る。

演技を作るのは、面倒である。
少なくとも、作業としては面倒なことだと思う。
面倒なことというのは、逆を言えば、やることが豊富にある、自分の創造性や工夫を試行錯誤する機会が豊富に、あるいは無限にあるということでもある。

けどどうしても、先のことを考えると、気が滅入ってしまう。
一線で活躍している方はきっとめんどくさいとすら思わず、一足跳びに創作を楽しむ過程に入るのだろう。

最終的に人に見てもらうものを、人に見てもらいながら作り上げていくのは、考えてみれば、驚くほど実際的である。

第51回「ビックフォード氏の個展を観に行ったただの手短な感想」

ブルース・ビックフォードの個展を、白金高輪にあるギャラリー山本現代まで見に行ってきました。
特によく知っていたわけでもないですが、好きなアートアニメーションをYouTubeで見ている間に見つけた作家です。

ブルース・ビッグフォードの『プロメテウスの庭』

27分間全てに渡って動き続けるストップ・モーション。
執念としか言いようのない量の粘土細工が使われている様が印象的。
人間の内面を、集中力を途切れぬように注意深くずっと覗き続けたら、こういう作品ができるんじゃないか、という感じでした。

展覧会では、実際に使われていた粘土の人形や紙を切り抜いて作ったオブジェがありました。
本当にこれを全部一個一個作っているのか、と想像すると、なんだかこちらの気が遠くなる。
小さな展覧会でしたが、作品上映もしていて、1時間ちょっとくらい滞在。

周辺も、下町風情があってとても良かった。
白金と聞いて想像するような高級住宅街とはまったく違う景色が、高層ビルのすぐそこにありました。友人と一緒に行ったのだが、昔ながらの屋台風の焼き鳥屋さんで焼き鳥を買って食べた。美味しかった。

六本木とかも、意外とちょっと道を外れると、昭和の空気があるんだよな。 昭和を生きたことは無いですが。 展覧会は20日まで開催中。 周辺の空気も合わせて楽しめます。
http://www.yamamotogendai.org/japanese/exhibitions

第50回「ふと思ったこと」

インターネットでブログを読んで、「この世は厳しいんだよ」という論調の文章や、「まったく理解していない人が多すぎる」という感じの論調の文章を読む。
その中の論理で言えば、その通りであり、当を得ている。
役に立つ知識を得た気にもなるし、一方で、気が滅入ることもある。

もしや自分がやることなすこと、とんでもなく程度が低いんじゃないかという気分にさせられるのである。
実際、そういう風に思い出すと自分は生ぬるく生きていると言われてもべつに反論できない。

だが考えても見れば、インターネットで何かを目にする、ということは、セレンディピティや利便性という観点でメリットでもある反面、自分が別に触れなくてもいいような文脈に触れてしまっている、というデメリットでもある。

ふとシャワーを浴びていて、たとえばアフリカの子供が、東京で起きている問題を読んで、当面の生活において何か意味があるだろうか、と思った。
自分とは関係のない脈絡の言葉で、今、ただここにいる自分のやる気の芽をしぼまされてしまったとしたら、随分勿体無いことじゃないだろうか。

インターネットでやる気を失わされることは、アフリカの子供が東京のニュースでやる気をしぼまされているくらい、客観的に見てみたら意味のないことのように思えたのだ。

ジョージ・ルーカスが、ファンの失望をあからさまな形で目の当たりにして「インターネットがない頃はよかった」と言った、という話を読んだことがある。

厳しく生きて行く心構えが全然足りていないことよりも、食べているカスタードクリームたい焼きは美味しいという事実や、朝早く起きて気持ちがいいという今の気分の方が、重みがある。

知らない人の早起きの話より、明日早起きしてみればいい。
見知らぬ人が批判をしている話を読むより、自分が行って感じたことをよく考えたい。
自分にとっての厳しさを必死で見つけたい。
インターネットに意味がないのではない。
ただ、相手との距離をはかる手立てが、極端に少ない。

文=青木直哉

第49回「煮詰まったら、とりあえずなんでもいいから走ってみるととってもいいのは、ひとえに、新しいアイデアとランニングには何の関係も無いからである」

だんだん暖かくなってきました。
まだまだ日によって差はありますが、日中、陽が出ていると、首都圏では比較的ぽかぽかです。
外で走ったりジャグリングをしていると、気持ちがよい。

TRANSITという雑誌の最新号で、メンタリストのDaiGoさんが『脳を鍛えるには運動しかない!』という本を紹介していました。
実感としては、そんな感じもします。きっとこの本を読めば実感を裏付ける科学的なデータがたくさん載っているのでしょう。(読む気はありますが今の所読んでいません)

旅も運動のうちだ、とDaiGoさんは言う。
それもそうかもしれない。走っている最中や、訪れたことのない場所でものを見ている時など、新しい考えが浮かぶことは多い。グエル公園なんか、よかった。何でもない台湾の道も、よい。クロアチアの海の岩の質感なんかも、いい。

そういえば最近夢が妙に長い。
長いし、その中で「新しい発見の感覚」を味わっていることがよくある。「あっ、そういうことね!」と夢の中でうんうん思っている。
起きると、その微かな味わいだけが残っていて、具体的に何がブレイクスルーだったのかは全く思い出せない。

外的な刺激が自分を変えることが多い、ということを見逃すと、いやなループに堕ちていってしまうことがよくありますね。
変わらなきゃ変わらなきゃ、と思うだけで、結局変わらない自分に嫌気がさして、ますます変われなくなっていく。
早起きをしよう、とか、顕著です。

走るのは面倒くさいですが、帰り道では何かしらすっきりしていることが多いので、やっぱり「有無を言わさずちょっと汗をかくくらいの運動をする習慣」が付いていると、いい。

おもしろいことを思いつこうと思ったら、たぶん何にもそれと関係のないことをするのが一番いいんじゃないかと思います。
根拠はさしてないですが、そんな気がします。

昨日観た『フルメタル・ジャケット』の最後のミッキーマウスのマーチは、とても印象的だったなぁ、という記憶は、3日後くらいにぱっと生かされるかもしれない。

文=青木直哉